ざっくり日本の歴史(その19)

本記事は2016年1月18日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

ちょうどメルマガ発行時、NHK大河ドラマ『真田丸』が始まったところで、今回は脱線して『真田丸』の話です。

脚本は『新選組!』以来二度目の登場、三谷幸喜です。三谷幸喜さんのドラマは好きなんですが、時代物となると不安が。

『新撰組!』は見ていないのですけど、映画『清須会議』は見ました。面白いんですが、どうしても軽いんですよね。それが三谷幸喜の味だからそれはそれでいいんですけど、歴史上の人物って、みなそれぞれ思い入れがあるので、悪い方向にイメージを崩されないかは心配でした。

本編のキャストも決まって、真田信繁(幸村)が堺雅人、兄の真田信幸(信之)が大泉洋、父の真田昌幸は草刈正雄。猿飛佐助こと佐助に藤井隆。豊臣秀吉に小日向文世、また小山田茂誠は名探偵コナンの高木刑事などの声優として有名な高木渉。

草刈正雄と言えば、中村俊介が主演だった『ツーハンマン』という、ちょっとマイナーな深夜ドラマを思い出してしまう私です。ずっと見てたわけでなくて、たまたま数回見ただけなのですが、あまりドラマを見ることがないので、その印象が強く残っていて。面白かったんですよ。

真田昌幸でもまたいい味出してます。素晴らしい。堺雅人もなんかちゃんと「青年」に見えます。初回登場時15歳なんですけどね、42歳(当時)が頑張ってる。(笑)

大泉洋も真面目な兄・信幸をしっかり演じてる。16歳を42歳が。実際知らずに見ていれば、なんの違和感もありません。若者二人です。

開幕早々に滅びてしまいましたが、平岳大の武田勝頼も良かった!

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◎──NHK大河ドラマ『真田丸』開始時点の時代(月日は基本、旧暦)

真田氏は昌幸を当主に、武田家に仕えています。重臣ですが、比較的、新参。

天正10年(1582年)初頭、武田勢が織田勢に攻められているあたりから物語は始まります。武田の当主は勝頼です。前年に本拠を新府城(山梨県韮崎市)へ移したてほやほやですが、未完で守り切れずに新府城を捨てる話が1話です。

武田は天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてボロボロ。隣接する上杉(越後)、後北条(相模)とは外交で関係改善を図るもなかなか上手くいかず。織田とも関係改善を図るものの、やはり上手くいかず。織田の調略をうけて身内さえも寝返る始末。

天正10年(1582年)2月、落ち込む平岳大・勝頼に、草刈正雄・昌幸が「富士や浅間の山が火でも吹かん限り、武田の家は安泰にございます」てなことを言うものの、直後、織田が侵攻を開始した日に浅間山が噴火……3月、新府城をあきらめて、火を放ち、逃亡することに。

真田昌幸が甲斐国を捨てて真田の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻)へ逃げようと進言し、迎える準備をしたのに、譜代家老の小山田信茂の横やりで一転、勝頼は信茂の居城である岩殿城(山梨県大月市)へ。ところが小山田信茂は既に織田へ寝返る心づもりで、勝頼を道中で追い返し、落ち行く先で勝頼は自刃。

武田の滅亡をうけて、真田は身の振り方を考える必要に迫られます。真田単体ではとてもじゃないですが織田には対抗できませんので、上杉につくか、北条につくか。悩んだ末、昌幸は織田につこうと決心します。このあたりが2話。(メルマガ時点ではここまでが放送されていました)

繰り返しますが、天正10年(1582年)3月の話です。

同年6月2日、大事件が起こりますね。本能寺の変です。織田につくなり、信長が消えます。

◎──本能寺の変があって

本能寺の変を受け、甲斐・信濃の旧武田領も大混乱に陥ります。一帯を預かっていた信長の家臣は続々と離脱し各地へ。旧武田領は空白地帯のようになったんですね。そこを徳川家康、上杉景勝、北条氏直、武田遺臣たちが狙いました。

河尻秀隆は甲斐に留まったのですが、家康は他所へ行かせようと画策します。秀隆は使者を切ってそれを突っぱねました。しかし秀隆は結局、武田遺臣たち甲斐国人衆の一揆勢に惨殺されます。

これらのゴタゴタの中、真田昌幸は武田遺臣の取り込みに動きます。取り込みつつ、各勢力の間を上手に渡り歩きます。

一応、織田方であった昌幸は、北条氏直の侵攻を受けて落ち延びる滝川一益を逃がし、その結果空いた地域を切り取りにかかります。一方で、進軍してきた上杉景勝に臣従しますが、7月には北条氏直に降ります。そして、北条勢として上杉を退けますが、9月、北条を捨てて徳川家康につきます。

ところが10月、家康が北条と同盟を結ぶことを選び、昌幸が切り取った沼田を北条に譲ると言いだしました。自力で得た領地を勝手に譲ると言われて、昌幸はブチ切れました。

天正11年(1583年)、昌幸は上田城(長野県上田市)の築城に着手しつつ沼田(群馬県沼田市)を巡って北条氏と対立。天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣し、沼田を北条に渡せと迫るも、昌幸は拒否。昌幸は徳川・北条連合と決別して、敵対していた上杉景勝につくことにします。その際、次男の信繁を上杉に人質として送りました。

離反を知った家康は、8月、真田討伐の兵を興します。これが、以前にもご紹介した第一次上田合戦です。押し寄せる徳川7000人の軍勢を、1200?2000人で撃退します。この時、徳川の被害は1200?1300、真田は40?70。真田は声望を高め、名実共に独立を果たしました。

出来事が同時進行で起こっているのでややこしいのですが、上田合戦の前年、天正12年(1584年)3月には、小牧・長久手の戦いが起こっています。織田信雄についた家康と秀吉の戦いです。詳細は割愛しますが、講和を経て、秀吉の世へと移っていきます。戦い自体は家康が圧倒していたんですけどね。

上杉も秀吉の傘下に入ったので、天正13年(1585年)冬、信繁は秀吉の元へ。真田も秀吉傘下に。天正14年(1586年)8月、秀吉の調停で家康は真田から手を引き、天正17年(1589年)には和睦、真田は秀吉の命で徳川の与力大名に。

上田合戦を通じて、真田昌幸の長男・信幸を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女として、信幸に嫁がせました。時期は分かりませんが、信繁は秀吉家臣の大谷吉継の娘(姪とも)を正室に迎えています。

後々に、関ヶ原や大坂の陣で兄弟が敵味方に分かれる布石は、既にこの頃には打たれていたんですね。敵味方に分かれたと言っても、兄弟仲に問題があったわけではなく、それぞれが義理を果たした結果でしょう。

◎──源三郎と源次郎

『真田丸』で、兄・信幸は源三郎、信繁は源次郎と呼ばれています。なぜ兄が「三」で弟が「二」なのかということについて作中では、真田家は長男が早逝するから長男らしくない名前ということで「源三郎」とつけたと語られます。弟が源次郎なのは、特に理由なく、と。

名前の話には諸説あって、実際は信繁が兄だが二人は異母兄弟で、信幸の母のほうが身分が高く、入れ替えられたというような説もあります。

ただ、父・昌幸は、真田幸隆の三男なのに源五郎、四男の真田信尹は源次郎。長男の信綱は源太、次男の昌輝は徳次郎。当の幸隆は次郎三郎、さらに通称は源太左衛門というので、もうなにが何やら。当時の命名感覚はよくわかりません……

◎──すごいのは父・昌幸?

だーっと真田にまつわる話を書いてきましたが、活躍の中心は信繁の父・昌幸です。信繁はまだまだ若い時代の話ですが、この期間の昌幸の活躍っぷりは、神がかっています。

武田家に仕え真田の礎を築いた真田幸隆が亡くなり、二人の兄を長篠の戦いで失って家督を継いだ昌幸は、武田家滅亡の難局を乗り越え、真田を独り立ちさせました。

関ヶ原の戦い直前、第二次上田合戦で徳川の主力を上田に釘付けにしたのも、昌幸です。信繁も父の元で奮戦していますけれど。

大河の主役であり、現代最も名高い「真田幸村」こと信繁がメインで活躍するのは、昌幸没後の大坂の陣くらいなんですよね。

大坂の陣に際し「真田が蟄居先の九度山を抜けて大阪城に入った」と聞いた家康が、「昌幸やっぱり死んでなかったの!?」と震えたって逸話が残ってるほど、昌幸はすごかった。後で「なんだ、息子の信繁かー」って安堵したそうで。

まあその信繁が、大坂冬の陣では真田丸を築いて、押し寄せる徳川勢を散々に蹴散らし、大坂夏の陣では本陣に切り込んで、家康が死を覚悟するほどまでに追い詰めたと言われているので、親子共々すごかったんでしょうけど、昌幸はもっともっと評価されてもいいんじゃないかと思います。

この大河できっと、昌幸の認知度も高まったはず。草刈正雄、かっこいいし!

きっちり「真田家」を守り抜いた信幸(信之)もえらいですけどね。

◎──さて、次回は

時代がいったりきたりですいません。『真田丸』が面白くて、つい。次回はまた江戸時代に戻ります。

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