ざっくり日本の歴史(その13)

本記事は2015年07月20日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

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◎──江戸時代初期の思想

さて、前回から江戸時代の話に入りましたが、幕末のドラマをより楽しむために、江戸時代における思想の流れを知っておいた方がいいんじゃないかと思い立ち、ここしばらく色々と調べていました。

発端は『花燃ゆ』きっかけで松陰先生に興味を持ち、その著書や伝記を読んで、そこからあれこれ辿っていったことにあります。

辿った経過は、おおざっぱに言えば、松陰先生は山鹿流兵学師範だったので、その源流の山鹿素行について調べ、その山鹿素行がもともとは林羅山の門下ということで、林羅山を調べ、と。また松陰先生と付き合いがあって、黒船への密航事件に巻き込まれる形になった佐久間象山についても調べたり。

で、江戸時代の思想の軸として「朱子学」は外せないということで、朱子学についてあれこれ本を買い、読んでみました。……が、難しすぎて無理でした。(爆)

今見れば、高校の日本史の教科書にも江戸時代の学問の流れは書いてあって、そこに出てくる人名くらいは記憶の片隅にあったんですが、その学問自体は、わりとさらっと書かれていて。今回、改めて勉強してみようとして、教科書に「さらっと」しか書かれていなかった理由が分かったような気持ちです。

難しい……。難しいから、なんとか片鱗でも理解しようとして、あれこれ調べるのですが、調べれば調べるほどに難しく……沼に足を取られる感じで。いや沼にはまった経験なんてないんですけど、イメージとして。

なんていうか、最初からいきなり難しいんです。朱子学について知ろうとして、朱子学入門ってな本をまず開いたわけです。そしたら、宇宙のことわりをどう捉えるかっていうような話から始まるんです。ああどうやらこれは難しい本にあたってしまったんだなと他の入門書を開くと、どれもそんな感じで。

心折れそうになりつつも、我慢して読んでいくと面白くもあるんですが、これはさすがに「ざっくり日本の歴史」にそのまま組み込むには無理があるなということで、上っ面だけで済ませます、すいません。以上、長々と言い訳でした。

◎──朱子学

さてその朱子学とは、南宋の朱子(朱熹)が儒学を再構築して体系化したものです。儒学というのは、孔子の教えに端を発する思想の流れで、孔子と孟子が二大巨頭といえるでしょう。孟子は孔子の孫である子思の門人から学んだと言われています。二大巨頭なので、儒学を指して「孔孟の教え」と呼ばれることも。

孔子の教えは『論語』に、孟子の教えは『孟子』に、それぞれ弟子によってまとめられていて、儒学の経書となっています。

儒学には特に重要とされる書がいくつかあり、どれを重要視するかは時代によって入れ替わりがありましたが、朱子は『論語』『孟子』『大学』『中庸』の「四書」を重視して、それぞれの注釈書を著しました。

また四書に加えて、より高度な書として『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を五経とし、合わせて「四書五経」と呼ばれます。なお四書のうち『大学』と『中庸』は五経の『礼記』から抜粋したものです。

朱子学、というか儒学は、ものすごく簡単に言うと、聖人の教えを学び、聖人に至るための学問で、理想とされる聖人とは古代の伝説の皇帝である堯・舜、そして周王朝の文王、武王、周公旦、加えて孔子、孟子です。学ぶことの基本は、これまたものすごく簡単に言うと、いわゆる道徳や礼儀が中心です。

孔子は紀元前6〜5世紀の人で、『論語』も日本には4〜5世紀くらいに伝わったとされていて、古代から官僚の教養として重視されていました。

朱子は12世紀の人で、朱子の教えも、それに続く儒学の流れも、鎌倉時代から少しずつ日本に入ってきていました。中国や朝鮮半島経由で、仏教と合わせて留学僧が持ち帰ったりで。

持ち込んだのが僧という経緯もあって、扱われ方は仏教といっしょくた状態。僧にとっての教養として学ばれていた儒学でしたが、それをきちんと切り分け、独立した学問として成立させたのが、禅僧だった藤原惺窩でした。

◎──藤原惺窩(1561年〜1619年)

近世儒学の祖と言われる藤原惺窩は、朱子学を基軸に儒学を体系的に捉え直し、京学派を興しました。豊臣秀吉、徳川家康にも儒学を講じた惺窩は、後に家康から幕府に仕官を求められましたが辞退、門弟の林羅山を推挙しました。

それが1605年のこと。つまり家康は、幕府成立早々から幕府で学ぶ学問の柱として、儒学の導入を考えていたということですね。

なお惺窩は朱子学を軸にしつつ、それと対立する儒学の学派も取り入れつつと、懐広く儒学を受け入れましたが、羅山は基本的に朱子学を軸としました。

◎──林羅山(1583年〜1657年)

寺で学ぶうちに儒学に出会い、独学で朱子学を研究していた林羅山は、21歳で惺窩に師事し、いきなり頭角を現しました。惺窩が羅山を家康に推挙したのは、門弟となった翌年のこと。羅山はとんでもない天才だったようです。本を読む時は五行を一気に読み、それで全てを覚えていたとか。

家康に推挙された翌年の1606年、イエズス会の修道士ハビアン(本名不詳ですが日本人です)と「地球論争」とか「地球問答」と呼ばれるディベートを行います。羅山は、地動説と地球球体説を受け入れず、地球方形説と天動説を主張し、なんと論破してしまいます。

もっとも、地球の話はあくまできっかけで、本質は宗教観についてのものだった(たぶん羅山も、地球が丸かろうがどうでもよかった)のですが、その宗教観の話で羅山に言い負かされたショックからなのか、その後ハビアンは信仰が揺らいで、キリスト教を棄教。

そして後にキリスト教を弾圧する側に回ることになります。羅山、恐るべし。まあどこまでが羅山のせいか分かりませんけども。「信仰が揺らいで棄教」は、具体的にいえば、修道女と駆け落ちしたんです、ハビアン。

羅山はさらに翌年の1607年、正式に幕府に仕官します。ただし家康は羅山を「僧」として仕官させました。独立した学問としてはまだまだ新興の儒学でしたので、旧来の仏教勢力との折り合いを考えてのことです。

以後、秀忠・家光・家綱と四代にわたって将軍のお抱え学者となります。四代って長いなと思いますが、この時、羅山はまだ23歳ですからね。

羅山はその才能をいかんなく発揮して、幕政に深く関わっていきます。方広寺鐘銘事件において、粗探しして難癖付けた功労者も羅山です。その羅山の活躍に伴って、儒学の地位もぐんぐん上がっていきます。

羅山、一応は僧のていで仕えているのに、仏教を批判したりもしています。形だけは僧ですが、中身は儒学者です。

家光の時代には土地を与えられて私塾を開設、また孔子廟を設けて祭祀の場とします。その孔子廟は綱吉の時代に湯島に移され、私塾も一緒に移設します。この孔子廟が現在もある湯島聖堂です。私塾は、後に幕府直轄の昌平坂学問所となります。

羅山の孫、林家三代目の林鳳岡から後は、林家当代の主は大学頭と称し、幕府の学問責任者としての役割を代々担っていきます。

74歳で羅山は最愛の妻を亡くし、その翌年には明暦の大火で邸宅と書庫を焼失。失意からか、その四日後に亡くなりました。

羅山が亡くなる前後くらいの話は、冲方丁の小説『天地明察』にも出てきます。本筋ではないですが、時代の雰囲気が感じられますし、純粋に面白い小説なのでお勧めです。同時代を描いた同作者の『光圀伝』も是非。

『天地明察』繋がりで、作中に出てくる同時代の学者をあと二人紹介したいと思います。まずは、作中でも重要人物だった山崎闇斎。

◎──山崎闇斎(1619年〜1682年)

江戸初期の儒学において惺窩の系譜は京学派と呼ばれましたが、土佐には南村梅軒(実在不明)を祖とする、土佐南学派(海南学派)という朱子学の一派がありました。

比叡山を経て、土佐の寺で修行する僧であった山崎闇斎は、土佐で土佐南学派の谷時中から朱子学を学び、儒学者との交流から傾倒を深めて、25歳で僧を辞めて還俗し、儒学者の道を選びました。

儒学者の道を選んだ、というものの、闇斎は様々な学問に興味を持ち、伊勢神道の中興の祖、度会延佳から伊勢神道も学びました。度会延佳は伊勢神道から仏教色を排し儒教を導入した人なので、儒教繋がりですね。

46歳の時、会津藩主・保科正之に召し抱えられた闇斎は、同世代の神道学者で吉川神道の創始者である吉川惟足に学び、さらに神道を研究。吉川神道の奥義を伝授され、神道と儒教を統合した「垂加神道」を開きました。「垂加」とは惟足が闇斎に送った号です。

垂加神道では、儒学に沿って解釈し『日本書紀』を重視、神道の核心を皇統に求めるもので、神道の枠を超えて尊王思想の発展に大きく影響しました。

儒学者としての闇斎の系譜は崎門学派と呼ばれ、門人には佐藤直方、浅見絅斎らがいます。佐藤直方も浅見絅斎も、垂加神道には批判的で、佐藤直方は決別しています。浅見絅斎は闇斎の死後に、神道にも興味を示しました。

◎──山鹿素行(1622年〜1685年)

儒学者としては聖学(古学)の祖、軍学者としては山鹿流兵学の祖、後に儒学から離れて独自の学問を推し進めた山鹿素行先生。松陰先生は素行を「先師」と仰いでいました(ちなみに佐久間象山のことは「師」と仰いでいました)。

9歳で羅山に入門して朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長に入門して甲州流軍学を学び、他にも神道や歌学など、多岐に渡って学びを進めた素行は、40歳になる頃から朱子学に疑問を抱きはじめこれを批判。朱子の解釈ではなく、周公旦や孔子の教えを直接学ぶべきだとし、1665年、門人への講義をまとめた『聖教要録』を著します。

これが保科正之の耳に入り、朱子学を奉じる幕府に対する罪とされて、1666年、播州赤穂に配流、浅野長直に預けられることに。素行は赤穂の浅野家とは以前から付き合いがあって、というか、高禄で招かれて兵学師範を務めていました。1653年、32歳の時のことで、赤穂城の縄張りを改訂したりもしています。赤穂にずっといたわけではありませんが、1660年まで仕えていました。

浅野長直は、浅野氏として初代の赤穂藩主で、「赤穂の塩」を天下に轟かせたのもこの人。千種川から赤穂城に引き入れた上水道は、日本三大上水道の一つに数えられています。

江戸城、松の廊下でやらかしちゃうのは長直の孫、浅野内匠頭こと長矩です。赤穂事件には素行の影響も強くあったと言われています。赤穂事件についてはまた別途。

1669年、素行は『中朝事実』を著します。これはどんな書かというと、
(※話の都合上、大陸のいわゆる中国のことをここでは支那とします)

「儒学もそうだけど、日本ってやたらと支那を持ち上げて中華かぶれするよね。中華思想っていうかさ。でもあの国、王朝も何度も変わってるし、臣下が君主に取って代わったりもするし、挙げ句、向こうで言うところの蛮族に国を奪われたりさ。儒学的にそれってどうなのよ。

それに比べて日本は万世一系の天皇が治め続けてるわけじゃない。あっちはコロコロ変わるのに、日本は天地創造から天孫降臨を経て神武天皇まで二百万年、そこから二千三百年続いてるぜ? 外国からの侵攻もぜんぶ退けてさ。儒学のいう理想の国家、中国、中華って、支那のことじゃなくて日本のことじゃね?」

という書です。尊皇、攘夷、国粋、皇国史観、ここに極まれりって書です。明治天皇の後を慕い殉死した乃木希典大将は、死の直前に後の昭和天皇にこの『中朝事実』を献上されたそうです。

さて素行は1675年には許されて江戸に戻っています。ちなみにその年、赤穂では長矩が三代目を9歳で継ぎました。素行は54歳の年です。以降、亡くなるまで10年間、素行は江戸で門人の指導に当たりました。

◎──とりあえずここまで

江戸初期の学問をちょこちょこっと覗いてみたわけですが、いかがでしょうか。かなり退屈だったかもしれませんが、江戸時代を見ていく上での最低限の予備知識、ってことで、お許しください。儒学関係はもっともっと色んな話があって面白く、特に日本の江戸時代とは切っても切り離せないのですが、キリがないのでいったんはこの辺で。次回は忠臣蔵の話でも。

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