本記事は2016年4月18日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
これを書いていた2016年4月、九州を大地震が襲いました。14日21時26分頃の震度7(M6.4)はニュースで知りましたが、16日1時25分頃の震度6強(M7.1)は、大阪でも大きな揺れを感じました。ちょうど実家に帰っていたのですが、震度3の揺れでした。震度3でも十分すぎる怖さです。
それがニュースでは余震で5や6が頻発していて、どこか感覚がおかしくなってきています。ああ震度4なら大丈夫だな、なんてふうに。
16日に実家に帰っていたのにはいくつか理由があって(まあ近いので頻繁に帰ってはいるのですが)、そのひとつは14日の地震でした。もともと別件で帰る予定でしたが、前倒しで帰りました。母が熊本出身なので、ショック受けてないかなーと思いまして。
そう、いつも大阪大阪と、さんざん大阪推しの私ですが、大阪と熊本のハーフなんです。
その熊本には、物心つく前に行ったことがあるらしいと聞かされて知ってる程度で、祖父母も私が小さい頃には大阪に出てきていましたし、どちらもずいぶん前に他界しているので、自分の田舎という感じはほぼゼロなんですけども。
ああ、中学の修学旅行で阿蘇に行ったんだったかな。熊本の思い出は、そんな程度。
それでもやっぱり自分のルーツである土地だという意識はありますし、それがこのような災害に見舞われて、それなりの衝撃はありまして。そんなこんなで、今回は予定を変更して、いつもの歴史話、熊本の話にしたいと思います。
◎──あんたがったどっこさ
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ」と『肥後手まり唄』にもあるように、熊本の旧国名は肥後でした。肥後があるなら肥前もあって、肥前は今の佐賀、長崎になります。
そして、肥前、肥後と分かれていますがさらに時代を遡ると、古代には合わせて「火の国(肥の国)」と呼ばれた地域でした(肥前と肥後の間になぜか筑後が挟まってるんですけども)。
この地域には、旧石器時代から弥生時代にいたるまでの遺跡が数多くあって、古代から多くの人が暮らしていたようです。比較的温暖で、海あり、山あり、平野ありって感じで暮らしやすそうですもんね。
ヤマト政権はこの地に行政区として、球磨(くま)県、閼宗(あそ)県、八代(やつしろ)県と、三つの「県(あがた)」を置いたとされています。どれも今でも地名として残っていますし、熊本のクマは、球磨からきてるのかと。
その「クマ」は、地形を表す古語に由来すると言われていますが、その意味は諸説あります。低地と高地が入り組んだ土地をいうとか、曲がりくねった川を指すとか、崖下を意味するとか。
現在も熊本には球磨川という川がありますが、ここで言う曲がりくねった川は白川のことを指すようです。まあどっちの川も、かなり曲がりくねってますけどね。
この地には元々、熊襲(熊曽・球磨囎唹:くまそ・くまそお)と呼ばれる豪族が、大和政権に抵抗する勢力として存在していて、熊襲討伐に来た景行天皇が不知火に誘われた地であることから「火の国」となったとの話があります。
また、その熊襲討伐で功績を挙げた豪族の子孫が、火君(ひのきみ)と呼ばれたとのことです。そんなこんなで「火の国」ができて、後に律令制度の下で「肥後国」「肥前国」となったようです。
◎──熊本と武士
さて時代はぐぐっと降って平安後期、全国の流れと同じくこの地域でも武士が力を持ち始めます。代表的な武士としては、菊池、阿蘇の両氏がありました。
その他の武士も含め、時代時代の中央の動きなどにも左右されつつ、この地で勢力争いが続けられます。戦国時代には、大友、龍造寺、島津氏などが争い、肥後がひとつに落ち着くのは秀吉が九州を支配する時代になってからです。
九州を征服した秀吉は肥後を佐々成政に任せますが、成政は上手く治められず、一揆が勃発。成政は責任を取らされて切腹、肥後は加藤清正と小西行長の下に。そのあたりの話はNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でもありましたね。
その後、関ヶ原の戦いで清正は東軍、行長は西軍に。結果、肥後は清正に与えられました。息子の代で改易にあって、肥後は細川氏のものになりましたけど。
まあ佐々成政が上手く治められなかったのも無理もないというかなんというか、当時の肥後は荒れに荒れていたようで、訪れた宣教師さえ「コンナヒドイクニ、ミタコトナイネ」ってなことを書き残したとか。
それをなんだかんだ上手く治めた加藤清正の人気は絶大で、そんなに長く治世が続いたわけでもないのに、熊本では今でも善政の名残を「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」として称え、神格化されています。
加藤清正、『真田丸』でも4月10日の放送で登場しました。…その週に地震が。
◎──熊本城
熊本城と言えば加藤清正と誰もが思っていますが、そもそもを辿ると室町時代、1470〜80年頃に菊池氏の一族である出田秀信が千葉城を築いたのが始まりで。さらにその後、1520〜30年頃に菊池氏は鹿子木親員に隈本城を築かせました。
この千葉城・隈本城をベースにその一帯で改めて縄張りを行い、城郭を築いたのが加藤清正。1591年から始まって、1600年頃に天守が完成しました。
2007年に熊本城は築城400周年の行事を行っていますが、加藤清正は1606年に城の完成を祝い、1607年に名前を隈本城から「熊本城」に改めたとのことです。
隈本の「隈」に「畏れる・畏まる」という字が含まれているので、それを避け、堂々とした「熊」の字に変えたと言われています。
今回の地震で、瓦が落ちたもののなおそびえ立つ熊本城の天守を見て清正を称える声を耳にしますが、今の天守は鉄筋コンクリートの復興天守です。元の天守は西南戦争で焼け落ちました。
それでも天守以外で清正時代の部分があり、地震にも耐えて残っていて、やはり清正すげーってなるんですけど。
でも清正の凄さをより感じるのは、西南戦争ですかね。押し寄せる薩摩の大軍に熊本城に籠もる官軍が、寡兵にも関わらず耐えて守り切りました。西郷隆盛は、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と言ったそうで。
真偽は確かめていませんが熊本城には色んなエピソードがあり、有名なのは、食べられる城だったという話。籠城を想定して、壁や床に、サトイモの茎や、カンピョウが混ぜられていたそうです。
さらに井戸も豊富で、それは西南戦争でも役に立ったとのこと。朝鮮出兵の際に厳しい籠城経験をした清正の工夫が現れたものだということです。
名古屋城、大坂城、姫路城と並び三名城に数えられる熊本城。震災復興が落ち着き始めたら、城の復興もぜひ成し遂げていただきたいです。三名城に四つも挙げたのは、選定基準が色々あるからです。
◎──次回はたぶん元に戻します
次回はまた江戸時代の話に戻ります。今回、熊本の話の他に、地震の歴史話も書こうかと思っていたのですが、長くなりそうで割愛しました。それを次回にとも思ったのですが、時代が下るほどに辛い話になりそうですし、パスします。
ひとつだけ、地震の歴史エピソードを。菅原道真公が最高位の官吏登用試験である方略試(対策、献策、秀才試とも)を受験した時の設問の一つが、地震を明らかにせよというものだったそうで。
これは試験の前年に、貞観地震という歴史的な大地震があったためではないかとのことです。その時の回答と出題者による講評、採点結果は現存する『菅家文草』の中に記されています。
古代中国で作られた世界最古の地震計の話にも触れているとかで、面白いので調べてみてください。
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