ざっくり日本の歴史(その29)

本記事は2016年6月27日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

新選組と言えば、歴史好きには幕末屈指の人気グループ。新選組を題材にした小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲーム、舞台は、タイトルを挙げるだけで他に何も書けなくなるような分量になりますので割愛。

今回からしばらくは、幕末から明治にかけて活躍した個人や団体にスポットをあてて、それぞれの立場から見たこの時代に触れていきたいと思います。

初回はその人気にあやかって、新選組を取り上げます。


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◎──新選組の立場と概要

幕末の勢力を大雑把に幕府方と倒幕方に分けると、新選組は幕府方です。京都の治安維持が新選組に課された役目でした。治安を乱すのは維新志士とか尊王志士と呼ばれる面々のうちの過激派です。

こんな言い方をするとちょっと語弊もありますが、行く末を憂いて志を立てる輩というのは、物騒なことが多いものですね。いつの時代でもどこの国でも。だいたいまあ過激な行動に出て、成功すれば英雄。失敗すればただのテロリスト。ともあれそれらを取り締まるのが、新選組の任務でした。新選組もまた過激でしたけど。

新選組は倒幕を企てる志士や、薩摩、長州の藩士を取り締まり、一定の成果を上げますが、時代の流れは倒幕へ。やがて倒幕方は新政府軍となり、旧幕府軍に属する新選組は敗走を続けます。その途中で局長の近藤勇も失い、最後は副長の土方歳三が函館で戦死して幕を閉じます。

なお新選組、新撰組と、二種類の表記を見かけますが、特に区別なくどちらも用いられていたようです。ゲーム・アニメの『薄桜鬼』のように、手偏の方は異能を持った別部隊、なんてこともなく。

新鮮組は、以前東京にあったコンビニです。今はローソンに組み込まれました。新鮮組のスパムおにぎりが懐かしい。漫画『静かなるドン』に出てくる暴力団も新鮮組。中山秀征がドラマ版で組長の近藤静也を演じていました。この作品では、登場人物の名字の多くが新選組隊士から採られていました。

◎──新選組の成立まで

武士として忠義に殉じた新選組、ですが、近藤勇も土方歳三も、元は農民です。生粋の武士ではないからこそ、武士たるものかくあるべき、という思いがより強かったのかも知れません。

多摩の農家の三男坊として生まれた勝太(後の近藤勇)は天然理心流剣術道場である試衛館(試衛場)に入門、後に師範の近藤周助の養子となって、近藤勇を名乗ります。この試衛館に門弟として在籍していたのが土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助で、また食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助がいました。斎藤一も出入りしていたそうです。

1862年から1863年にかけて、徳川家茂が上洛する際に、清河八郎の発案で将軍護衛の隊が、身分を問わず広く募集されました。これに近藤をはじめ、土方、沖田、井上、山南、永倉、原田、藤堂の試衛館グループが応募。

また、水戸藩浪士であった芹沢鴨、新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助のグループも応募。この隊への応募は200名を超え、浪士組と名付けられて、将軍に先立って京都へ出発しました。(1863年2月27日)

その道中、宿場で宿割り担当だった近藤が、芹沢の宿を手配し損ねて芹沢が激高。後に対立する近藤派と芹沢派の遺恨が、ここから既にあったとのことです。

さてその浪士隊ですが、京都に着くやいなや発案者の清河八郎が、この隊は、実は将軍警護のためでなく尊王攘夷のために集めたのだと、とんでもないことを言い出します。清河八郎はもともと討幕運動家でした。

そのまま将軍警護したいやつは残れ、ってことだったので、近藤派や芹沢派らをはじめ24名が残りました。この24名の隊は、京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり、拠点の京都・壬生にちなんで「壬生浪士組」と名乗りました。これが後の新選組です。(1863年3月13日)

なお清河について江戸に引き返した浪士組ですが、江戸に着いてほどなく清河と取り巻きが幕臣に惨殺されて、何もすることがなくなったため、幕府はその残りを取りまとめ「新徴組」とし、江戸市中取締役の庄内藩預かりとしました。

まあ会津も庄内も、なんともやっかいなグループをよくも引き受けたものです。人が足りなかったのか、面倒見がよかったのか、押しつけられたのか。そんな風に思うのも、この後のことを知ってるからかもしれませんけどね。

戊辰戦争の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼討事件は、新徴組によるものです。また、戊辰戦争で会津藩が執拗に攻撃されたのは、京都で新選組が志士や長州藩士を斬りまくったせいだとの説があります。

さて話を戻しますが、そんな経緯で結成された壬生浪士組は京都守護職の松平容保から、不逞浪士の取り締まりと京都市中の警備を任じられます。

壬生浪士組は、芹沢鴨を筆頭局長、近藤勇、新見錦を局長とし、三人の局長と、山南敬助、土方歳三の二人の副長を中心に活動を始めます。新規入隊を募り、また活動資金を募り、徐々に隊の形を整えていきました。

予算が付けられていなかったため、主に大坂の商家から活動資金を募るのですが、芹沢のやり方は完全に恐喝でした。また酒癖も悪かった芹沢は何かとあちこちで暴挙に及びます。

腕の立つ芹沢は、有事には頼りになる存在で、1863年9月30日(文久3年8月18日)、八月十八日の政変を受け御所の警備に向かった際、壬生浪士組を知らなかった会津の警護藩といざこざになりますが、芹沢が軽くあしらったそうです。なおこの八月十八日の政変での出動を機に、壬生浪士組は「新選組」の隊名を与えられたと言われています。

こうして新選組ができたわけですが、芹沢の暴挙は留まることを知らず、翌月、近藤派は芹沢を暗殺、芹沢派を粛正します。

◎──池田屋事件

局長・近藤勇、副長・土方歳三、総長・山南敬助の下、再スタートした新選組ですが、翌1864年の7月8日(元治元年6月5日)、その名を轟かせることになります。池田屋事件です。

尊王攘夷の名の下に朝廷に取り入り倒幕を考えていた長州藩は、公武合体派の薩摩藩、会津藩によって前年、京都から締め出されていました(前述の「八月十八日の政変」)。

しかしその後も京都で密かに勢力挽回を図っていた長州は、新選組の捜査対象となっていました。攘夷志士として名高い梅田雲浜の弟子である古高俊太郎は、京都で枡屋喜右衛門を名乗って商売をしており、潜伏する長州藩士の後ろ盾として拠点や武器を提供していたのですが、その古高の素性が新選組にばれます。

拷問の末に自白したとされる内容は、長州の一派が、強風の日を選んで御所に火を放って、混乱に乗じて天皇を長州へ連れ去ろうとしているというもので。

さらに調査の結果、古高の逮捕を受けての会合が近々行われるとの情報が入りました。日取りはつかんだものの、どこで行われるのかは特定しきれなかった新選組は、近藤班と土方班の二隊に分けて、市内を捜索。

主力は土方の班でしたが、近藤の班が池田屋で現場に遭遇します。

一般的には、四国屋か池田屋の2か所にまで絞り、四国屋を本命として土方が、池田屋には近藤が、それぞれ向かったとよく言われていますが、実際にはその2か所の他にも回っており、手当たり次第探していたみたいです。

20数名の尊攘派に対し、新選組は見張りを残して近藤、沖田、永倉、藤堂4名で踏み込みました。内外で激しい戦闘となりましたが、土方班の到着で新選組が優勢となり、捕縛にかかりました。

新選組と言えば斬りまくるイメージで、この池田屋でもだいぶ斬っていますが、基本的には捕縛を前提としていたようです。でも人数差がなければ捕縛なんてできないので、池田屋でも最初は斬り合いになっています。

また新選組と言えば、袖口にダンダラ模様(大きなギザギザ模様)を白く染め抜いた、浅葱色の羽織が有名ですが、着ていたのは池田屋事件頃までのようで、その頃から後は黒ずくめだったようです。

池田屋事件では、肥後藩の宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔麿といった、吉田松陰に縁のある二人も亡くなっています。

この池田屋事件ですが、御所に放火しての天皇動座計画が本当だったのかは、はっきりしていません。もっと言えば古高が本当にそう自白したのかも謎です。ただこの後、長州は会津排除のために京へ進軍(禁門の変)するくらい過激な行動にでていますので、さもありなんと言ったところでしょうか。

なお池田屋ですが、その後持ち主も転々とし、昭和中頃には取り壊され跡地に建ったビルで今(執筆時)は「池田屋 はなの舞」という居酒屋として、歴女で賑わっているそうです。あと『薄桜鬼』ファンですかね。コラボもしてたようで。

◎──再編や分裂

池田屋で名を挙げた新選組は、その後の募集で隊士も膨れあがって、小隊制を採ります。「一番隊組長、沖田総司!」なんていうあれです。

またこの時期、藤堂平助の紹介で、参謀となる伊東甲子太郎も迎えています。局長、副長に次ぐ役職として伊東が迎えられたこともあってか、総長の山南は翌1865年3月(元治2年2月)、置き手紙をして江戸へ帰ろうとします。ほどなく追手の沖田に追いつかれ、連れ戻されて切腹となりました。

一方で伊東は、近藤には気に入られていたようですが、そもそもが倒幕寄りの傾向があり、新選組の中でそれなりの立場を得ると同志を募って組を割り脱退します。1867年4月(慶応3年3月)のことです。藤堂平助も斉藤一も伊藤に同行していますが、斎藤は間者として潜り込んだとの説があります。斎藤は後に復帰していますし。

この頃、新選組は会津藩預かりから、隊士全員が幕臣となっています。まあ、数か月で幕府自体がなくなってしまうんですけども。

伊東らは『御陵衛士』を名乗り活動を始めますが、近藤に接待を受けた帰路で新選組隊士に暗殺されます(油小路事件)。大政奉還の翌月、1867年12月13日(慶応3年11月18日)のことで、坂本龍馬が暗殺された近江屋事件3日後のことでした。

新選組は伊東の亡骸を路上に放置し、そこに駆けつけた御陵衛士も始末します。伊東についていた藤堂もそこで命を落とします。試衛館時代からの盟友だった藤堂について、近藤は永倉に、上手いこと助けてやるように伝えていたらしいのですが、事情を知らない隊士に斬られたとのことです。

なお藤堂は、文武に優れた美男子として伝わっていますが、残念ながら写真は残っていません。写真と言えば、よく本人の肖像と思われているものに斎藤や沖田のものがありますが、どちらも本人ではなく、斎藤のものは長男の顔から想像で描かれたもの、沖田に至っては姉の孫をモデルに描かれたものだそうで。

長姉が孫を見て「どこか総司に似てる」と言ったことがきっかけだそうです。だから、斎藤も沖田も美男子だった可能性、あるよ!

◎──戊辰戦争と新選組の最期

1868年1月19日(慶応3年12月25日)に江戸薩摩藩邸の焼討事件があり、旧幕府軍は新政府軍との開戦へ。新選組は戊辰戦争に巻き込まれていきます。

徳川慶喜と共に大坂にいた旧幕府軍は、薩摩を討つために京へと進軍します。旧幕府軍主力は鳥羽街道を進み、また新選組は会津藩、桑名藩らと伏見市街へ進みました。旧幕府軍の目的は「討薩」でしたが、相手は「新政府軍」です。

数で勝っていた旧幕府軍ですが、新政府軍は新式の武器に加え、朝廷の後ろ盾を得て「錦の御旗」を掲げました。天皇が認めたのではなく岩倉具視が勝手に作らせたという説も強くありますが、その時から旧幕府軍は朝廷に楯突く賊軍、新政府軍は官軍となりました。

岩倉が用意していたことは確かなようですが、一応、朝廷は認めていたとも。許可に先立って作っていただけで。でも、錦旗に限らず、討幕の密勅偽造説など、岩倉には黒い噂が多いです。

錦旗のこともあり、旧幕府方と思われていた藩や旧幕府軍の内部でも新政府軍に付くものが続出、旧幕府軍は敗走します。新選組も井上源三郎らをうしないつつ大坂へと敗走しますが、大坂にいるはずの慶喜は、既に江戸に向けて脱出していました。

残された新選組らも旧幕府軍の軍艦で江戸に向かいます。船中、深手を負っていた山崎丞も亡くなります。

江戸に着いた新選組は、陸路を東進してくる新政府軍に対して旧幕府直轄地であった甲府を押さえるべく、「甲陽鎮撫隊」と名を改め、新たに兵も補充して進軍しますが、急造部隊は統率も難しく、先に新政府軍に押さえられてしまい、潰走しました。なおこの行軍の途中、病身の沖田は江戸に返されています。

甲府から逃げ戻った後、江戸城の開城を経て、会津へ北上して再起を図ろうとしますが、その方法を巡って永倉新八と原田左之助が袂を分かち、永倉と原田、ほか数名が離脱。神道無念流で永倉の同門だった芳賀宜道を隊長とした、靖兵隊を組織しました。

会津行きに備えて隊を再編した近藤と土方は、下総の流山に布陣。しかし、そこで近藤が新政府軍に捕縛されてしまいます。その処遇を巡っては新政府軍内でも意見が分かれましたが、最終的には斬首の上、京の三条河原に首を晒されます。

近藤の捕縛を受けて土方は、新選組の大部分を斉藤一に託して会津へ向かわせ、自身は旧幕府陸軍に合流、転戦しつつ北上します。負傷し会津へ護送されて、そこで斉藤とも再開しますが、会津の不利に土方は援軍を求めて庄内藩へ。しかし庄内藩は新政府軍に恭順を決めて門前払い、土方は仙台に転進します。

斎藤は最後の最後まで会津に留まり、生き残った会津藩士と運命を共にします。新選組は結成時に会津藩預かりだったので、会津に忠義を尽くしたんですね。

土方は仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して、奥羽越列藩同盟の瓦解を見届けると、榎本らと蝦夷地へ向かい、最後は箱館・五稜郭での戦闘にて銃弾に倒れ、この世を去りました。満34歳でした。

◎──次回も新選組

新選組の流れだけで長文になってしまったので、次回も新選組。もうちょっと個人個人の紹介などを書きたいと思います。

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