ざっくり日本の歴史(その26)

本記事は2016年5月16日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

これを書いていた頃、『真田丸』は大坂編に入ったところ。毎回面白い展開が続いています。ちょっと三谷色の強すぎるコメディ部分もありますけど、まあ面白いので良し。

大坂編の面白さを支えている軸は、小日向文世の秀吉。秀吉は竹中直人が至高と勝手に思っていたのですが、毛色は違うものの、小日向秀吉も大いにアリです。前回紹介した加藤清正(新井浩文)は、ちょっと好みじゃないですけども。(※この数年後、新井浩文があんなことになるなんて……)

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◎──江戸幕府の改革

さて、吉宗の話で享保の改革を紹介しましたが、江戸時代は何度か大きな改革時期を迎えています。これまでに紹介したもので言えば、綱吉の政治もひとつの改革ですし、続く家宣の時代、側用人の間部詮房と学者の新井白石が中心に行ったいわゆる「正徳の治」も改革です。そして、吉宗による享保の改革。

今回は改革をざっと追いかけつつ時代を進めようと思います。

まあ、ぶっちゃけ改革続きですね。上手く行ったものは次代にも引き継がれ、
そうでなかったものは「改革」されて、と、その繰り返しであればどんどんと良くなっていくんでしょうけど、運不運もあれば複雑な思惑もあったりして、ずっと手探りが続く感じです。

また、改革というからには大きな変化を伴うので、次代には揺り戻しのような政策に転じたりもします。倹約だー、米だー、と暴れん坊が改革に励んだ次に出てくる改革者は、商業を重視する田沼意次でした。

◎──田沼時代

田沼意次と言えば賄賂、というくらいに学校の授業ではダーティなイメージを植え付けられている意次ですが、実際は傾いた幕府の財政を大いに建て直したやり手の政治家です。

また、発明家として知られる平賀源内と交流があったり、蝦夷地(北海道)を調査してロシアとの交易を検討したりと、広い視野を持つ人物でもありました。

それが賄賂政治家としての汚名だけ広まっているのは、失脚して功績までも否定されたからなんですが。もっとも、池波正太郎『剣客商売』を読まれた方は、意次に悪いイメージは持っていないはず。主人公である秋山大治郎の義父でもあり、優れた政治家として描かれていますので。

田沼意次自身は江戸生まれですが、父は紀州の出身で、紀州時代の吉宗に側近として取り立てられた人物でした。本人は九代将軍家重の小姓として抜擢され、家重の死後も十代将軍家治の下でガンガン出世を重ねて、側用人、そして老中にと上り詰めました。

吉宗がそうだったように、当時の武士は米作りを尊び、お金や商売は卑しいものと考えているところがありました。信長や秀吉はもちろん、家康もそんなことはなかったのに、いつ頃からかそうなったのは、朱子学の影響らしいです。

そんな風潮の中で商業を重視して財政を再建した田沼意次は、紛れもなく優れた政治家だったのでしょうが、反発する者も当然いました。隙あらば失脚させてやろうと。その「隙」は、浅間山の噴火という、思いがけない形で訪れます。

前にも書きましたが、天災が起こるのは政治が乱れているからだという考え方がありました。さすがに江戸時代も半ば、そんなものは迷信だと思われていたかもしれませんが、この時の大噴火は大凶作を引き起こし、近世最大の飢饉、天明の大飢饉に繋がりました。

さらに後ろ盾であった家治が亡くなり、一気に追い落とされる流れとなってしまいました。追い落としたのは松平定信です。

◎──寛政の改革

意次を追い落とした老中松平定信は、十一代将軍家斉の下で寛政の改革に取りかかります。やったことは、田沼時代の全否定。

田安徳川家の初代である宗武の七男として産まれた定信は、吉宗の孫に当たることもあってか、質素倹約を奨励します。

さらに風紀の取り締まりとして、蘭学を制限したり、厳しい出版統制を行ったり、朱子学を幕府公式の学問として重んじたり。息苦しいったらありゃしない政策を推し進めます。

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」なんて狂歌が詠まれたなんて話もありますね。白河とは、白河藩の藩主だった松平定信のことです。

結果、評判も悪くなった上に、別件で将軍の不興をかったこともあり、6年ほどで失脚します。

工藤平助の『赤蝦夷風説考』を知って、蝦夷地を通じてロシアとの交易を考えた意次に対し、定信はやっぱりそれらも全否定。ロシアに漂流した大黒屋光太夫を保護し日本に送り届けた、ロシア最初の遣日使節ラクスマンに対して、交易を拒絶。

また、ロシアに脅威を感じて海防の重要性を説いた林子平の『海国兵談』を発禁として処罰するなど、もう、是非はさておき、視野が狭い狭い。

大黒屋光太夫の話は、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』に描かれ、緒形拳の主演で映画化もされています。

◎──大御所時代を経て、天保の改革

定信の失脚後、しばらくは定信の後継一派や復権した意次時代の一派が幕政の舵取りをしていましたが、その後、家斉が自ら表に立つ大御所時代と呼ばれる時期を迎えます。

将軍職を十二代家慶に譲った後も、大御所として政務を行ったため大御所時代と呼ばれるのですが、この時期はこれまた揺り戻しか、風紀が少し緩みます。

風紀が緩むと言うと聞こえが悪いものの、文化が発展するのはそういう時期。この時期には江戸を中心に化政文化が花開きます。

そして十二代将軍家慶の下、次に出てきた改革者は天保の改革で知られる水野忠邦です。これまた大御所時代の揺り戻しか、綱紀粛正と質素倹約が中心です。いったりきたり、なにをしているやら。ま、たった2年で失敗に終わりました。

なお人事改革にも取り組んでおり、『遠山の金さん』のモデルである遠山景元を取り立てたのは忠邦です。忠邦が贅沢取締りの一環で芝居小屋を廃止しようとした際、景元はそれに反発。結果、移転に留まりました。

そんな景元を称えて芝居小屋でかけられたのが『遠山の金さん』ものだとのことです。

金さんはさておき、忠邦の時代には、モリソン号事件と蛮社の獄が起きました。モリソン号事件とは、ラクスマンの時と似たようなもので、漂流した日本人を送り届けつつ、通商を持ちかけたアメリカ商人を突っぱねたもので。

ラクスマンの時と違うのは、1825年に発令された異国船打払令が適用されて、威嚇砲撃で追い払われたことです。漂流民はその後、長崎のオランダ商館を通じオランダ船で送り返されました。

このモリソン号事件を契機に、異国船打払令などの政策を批判した渡辺崋山や高野長英らを処罰したのが、蛮社の獄です。

諸外国から通商を求められ、それを突っぱねて、批判され、それを罰してと、幕府の鎖国政策が揺らぎを見せ始めます。1840年にはインドで阿片戦争も起き、幕府はもう内政の問題だけでは済まなくなってきます。

そして、1853年にはペリーがやってきます。また同年、家慶が亡くなります。徳川十五代も、残すところ三代となりました。いわゆる幕末の到来です。

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