ざっくり日本の歴史(その23)

本記事は2016年3月14日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

NHK大河ドラマ『真田丸』の後押しもあり、2016年度の大阪城天守閣は、32年ぶりに年間の最高来場者数を更新することになりました。

『真田丸』効果と言えば、「信州上田真田丸大河ドラマ館」も好調で、わずかオープンから2ヶ月足らずで前年度大河の『花燃ゆ』ドラマ館の年間来場者数を上回りました。

『真田丸』が大河に決定したのは2014年の話ですが、その年は大坂冬の陣(1614年)から400年の節目、翌2015年は大坂夏の陣(1615年)から400年の節目ということで、大阪城では、この二年間を大いに盛り上げるために、なんと10年も前から仕込んできたとのこと。

この話をここに書いていたら、今日の話がそれだけで終わってしまいますので、詳しくはリンク先の記事をご覧ください。面白いですよ。

大阪城天守閣 32年ぶり年間最高入館者数更新の理由は(THE PAGE)


なお前回となる「32年前」に来場者記録を更新したのは、大坂城築城400年を記念した年のことでした。こういった歴史的な出来事からの周年を記念したイベントは開催すべき年が読めるので、思いつきさえすればじっくり準備を進められるんですよね。周りの理解や協力が条件ですけども。

さて、前回から徳川吉宗の話に入り、将軍就任までの経緯をご紹介しましたが、吉宗が将軍になったのが1716年のこと。そう、これを書いている2016年からちょうど300年の節目なんです。

10日ほど前の3月5日、吉宗の故郷と言える和歌山城に行くと「徳川吉宗公将軍就任三百年」の幟が城内のあちこちに立っていました。で、盛り上がりを期待して天守や資料館に足を運んだのですが、どうも今ひとつ、吉宗フィーチャーな感じはしなくて。「いつもどおりの展示」って感じでした。

まあまだ春先、これからなのかも知れませんが。行ったタイミングが悪かったのならいいんですけど。就任は初夏だったので、夏に期待。和歌山には幸村ゆかりの九度山もありますし、そちらにも期待。

和歌山城、良かったですよ。大阪城と同じく桜の名所で、夜間はライトアップもあり、出店も並ぶそうです。庭園もいい雰囲気ですし、おすすめです。ちなみに和歌山城も秀吉が作らせた城です。お隣ですし、大阪城とは何かと縁深く、姉妹城郭としての提携も。

大阪城は和歌山城の5倍の桜がありますけどねっ。(強調)

江戸時代はかなり関東に持ってかれますが、歴史の舞台に気軽に行ける関西、この年になって満喫しています。学校の日本史の成績はボロボロだったのに。

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◎──吉宗のお仕事

相次ぐラッキーで将軍の座についた吉宗ですが、もちろんラッキーだけで選ばれたわけではありません。紀州藩主としても藩財政再建の実績がありました。

組織改革と税制改革、そして質素倹約に務めるなどして幕府からの借入も完済。また、和歌山城の門前にいわゆる「目安箱」を設置し、直接意見を募ることも行いました。後に将軍になって取り組む政策のいくつかは既に、紀州藩で既に実施済みだったんですね。

徳川幕府八代将軍として財政改革に取り組み「中興の祖」とされる吉宗ですが、紀州藩にとっても中興の祖であったわけです。いや中興の祖どころか、本来、藩主が将軍になった時点でその藩はなくなるのが普通だったそうなんですが、紀州藩を吉宗は「御三家は家康様が作った聖地だからー」と残しました。家督は従兄に譲る形で。

まあ御三家の持つバックアップとしての機能を考えれば、残すのが妥当だとも思いますけどね。従兄に譲ったのは、兄弟はもういないし、息子は今後、徳川将軍家を継いでいくからです。

紀州藩を残したから、というのもあると思いますが、将軍になった吉宗は紀州時代の家臣団をぞろぞろ引き連れては行きませんでした。重臣は残し、わずか40名ほどのみ連れて行きました。

お気に入りで固めて幕政を乗っ取るような形にしなかったことで、これがまた周りに好感を持って受け止められたようです。

就任すると、先々代である六代将軍家宣時代からの側用人であった間部詮房、そして新井白石を罷免しました。吉宗は側用人は置かず、御側御用取次という似たポストを新設して、紀州から連れてきた者のうち3名をそこに任じました。暴れん坊将軍で言えば、「じい」はそのポストです。

ポスト新設と言えば、時代劇などに良く出てくる「御庭番」も吉宗が新設したものです。暴れん坊将軍で言えば、情報収集したり、人質助けたり、成敗ってかけ声を受けて悪いやつにとどめをさしてる、あの人たちです。

実際の御庭番は、あんな隠密みたいなのと言うより、秘書兼SPみたいなものだったようですけど、諜報なんかはしたみたいです。

暴れん坊将軍で言えばと繰り返していますが、言うまでもなく、あれは完全にフィクションです。始まる瞬間からフィクションで、マツケンのまたがる白馬はサラブレッド。当然そんなの当時はいません。

番組中、天守を背景にお庭を散歩してたりしますが、江戸城の天守は明暦の大火(1657年)で焼失した際に、保科正之の献策で再建が見送られたままです。あの天守のロケ地はだいたい姫路城らしいです。

そもそも将軍様が身分を隠して街に行くなんてことできるわけが……なんてこと言ってしまえばおしまいなんですが、家光は、夜な夜なお城を抜け出して人斬りしていたなんて話もあるそうですので、もしかしたら吉宗も、徳田新之助としてぶらつくくらいのことはしたことあったかもしれません。いや、ないか。ないですね。

◎──享保の改革

本物の吉宗の話に戻ります。吉宗の一連の政策は、その在任期間の年号から、まとめて「享保の改革」と呼ばれています。どんなことをしたのかざっと見てみましょう。先に挙げた、間部詮房、新井白石の解任、御側御用取次、御庭番の創設といった人事制度の改革もそのひとつです。

・足高の制

人事制度では「足高の制」という制度も作りました。当時は、役職ごとにその役職に就ける禄高が決まっていました。禄高、というのは、どれだけの給料をもらっているか、ということですが、給料って考えると役職ごとに決まってて別にいいじゃんって思われてしまいますので、家柄というか「格」だと思ってください。

その人に、ああ、あなたなら3000石ね、あなたは5000石、あなたはこないだいい仕事したから、加増して8000石にしましょう、というふうに禄高が決められ、8000石ならば、そうね、この役職を与えましょう、あっちの役職はその禄高では就けないね、ってな具合に、禄高に応じて役職が決まってた。というか役職ごとに、必要な禄高が決まってた。

で、禄高って基本的には「それだけの米が取れる領地」のことなんで世襲制。そこで問題になってくるのは、家柄は低いけれども優秀な人が出てきた場合で。

さっき書いたみたいに加増すればいいじゃんと思うかもしれませんが、世襲制だから、その人を取り立てるために加増してたら、ゆくゆくずっと幕府の財政に響いてくるわけですよ。

そこで吉宗は、家に与える禄高、家禄は家禄として、それが役職に就くための禄高に届かない場合は、その差分を別途支給する、という形にしたんですね。これで家柄に関係なく優秀な人材を登用しやすくなりました。

・目安箱の設置

中学校でも習いましたよね。最初の方で書いたとおり、紀州藩でやってたのを持ってきたものです。ちなみに目安箱は吉宗の発明ではなく、戦国時代から、やってた国はいくつかありました。武田とか北条とか。

目安箱への投書は、発言に責任を持たせるために記名制になっていましたが、吉宗は投書でぼろくそに批判されたことがあるそうです。(笑)

・小石川療養所の設置

これは目安箱の成功の例。町医者の赤ひげ先生が、貧しい人のための療養所を幕府で作ってあげてよと投書し、取り入れられました。

・質素倹約を奨励

これも紀州から持ってきたもの。紀州で一応、成功しましたしね。質素倹約については次回以降でまた触れることになると思います。

・公事方御定書

訴訟をスムーズに裁くために、判例をまとめさせました。えらい。

・洋書の輸入制限を緩和

キリスト教禁教の関係でずっと洋書の輸入は禁じられていたのですが、吉宗は「キリスト教に関係ないもので、漢訳されたものならいいよ」と緩和。これは地味に大きいです。

・上米の制

諸藩に「幕府いま苦しいので米を差し出せ、代わりに参勤交代短くするから」と、米を差し出させました。諸藩はその分年貢を上げたりするので地方の農民からブーイング。幕府内でも、ちょっと格好悪くないか、とブーイング。9年で廃止になりました。

改革、ほかにも色々ありますが、とりあえずこの辺で。

◎──米将軍

禄高や上米の制の話で「米」がでてきましたが、吉宗と言えば「米将軍(米公方)」とも呼ばれた人。もっと米がらみの話題があるんですけど、多いので、次回以降に回します。吉宗、米にまつわる政策で名を馳せた印象がありますけど、まあ、米に振り回され倒してます。

ということで次回は吉宗の経済政策、質素倹約と米の話について。

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