ざっくり日本の歴史(その8)

本記事は2015年04月6日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

明治維新によって迎えた新時代はまさに今の日本に直結しているのですが、それ以前の江戸時代だってなかなか、今の日本のかたちに近い姿をしていると感じます。もう少し遡って室町時代となると、さすがに今とは大きく違う印象。諸説がありますが、日本の時代区分の中世と近世の境目が、そのあたりにあります。

Wikipediaによると近世のはじまりは、
1)織田信長の上洛(1568年、室町末期)
2)豊臣秀吉による全国統一(1590年、戦国時代末、安土桃山時代後期
3)江戸幕府の成立(1603年)
この3説があるそうです。(Wikipedia「中世」の項より)

区切りなので、どこかの一時点に線を引かないといけないんでしょうけれど、時代にその区切りをつけたのは、信長、秀吉、家康の三英傑だと思います。

時代なんてそうそう大きく変わるものではありません。まして個人名を挙げて、この人が時代に区切りを付けました、なんてことを言えるケースはまず稀です。強いて言えば、武家政権を成立させた源頼朝を挙げることができそうですが、あれは時代の流れからの必然のようなものじゃないかと。あるいはその前の、平清盛にしてもそうで。緩やかに上昇カーブを描いてきたその頂点にたまたま、清盛がいて、頼朝がいて、というような。

それなりに時代にインパクトを与えた人としては、足利義満なんかは影響力も大きかったと思います。でも足りない。

まあ何が足りないって、義満に限らず、普通、寿命が足りないんです。中島敦が「人生は何事も為さぬにはあまりにも長いが、何事かを為すにはあまりにも短い」と言ったそうですが、そんな感じ。寿命くる前に亡くなることもありますしね。まさに信長のように。

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◎──才能と幸運と

満48歳で天寿を待たずして亡くなった信長ですが、それでもかなりあれこれ、やってのけました。天下を統一しよう、なんて動き自体もそうですが、寺院に武装解除させたり、兵士の専業化など、兵農分離の動きを推し進めたのもそうですし、貨幣経済を発展させたこともそうです。その二つは複雑に絡み合っていますが、時代を変えた両輪だと思います。

細かいことでは、鉄砲の活用、鉄に覆われた軍船、とんでもない構造だったと言われる安土城の天守、秀吉の登用、家康との同盟、などなどをはじめ、天才エピソードには事欠きません。神になろうとしていたらしいですしね。唐入り(中国侵略)も目指していたそうで。

ま、天才だけど、死んじゃいます。普通はここで天才の夢もついえます。が、幸運なことに信長には、共に夢を追い続けてきた部下が、しかも主家に取って変わって君臨してやろうという野心家の部下がいたんです。その部下もまた、天才ときたもんだ。なんというラッキー。

今でもそうですが、何事かを成し遂げようとしたとき、有利なのは個人による独裁です。即断即決できるので。有能な独裁者がいれば、その時代のその国はそれなりに強固です。でも、どんなに有能でも、いつか死んじゃう。

そして、世襲だと顕著ですが、だいたい二代続いて天才的なんて幸運はまず起こりません。世襲のほうが血だけでなくて想いなんかも継がれやすいんですけど、なんせ、なかなか才能までは継がれないというね。

その点、信長はある意味ラッキーだった。秀吉がいた。ずっと一緒にいた部下。3歳年下の天才ハゲネズミがいた。とんでもない野心家のハゲネズミが。

嫡男の信忠も、信孝や信雄よりは優秀だったようですが、本能寺の後の動きをみても、ちょっと物足りない。二条御所に立て籠もってなければ、包囲されて自害するのとは違う道もあったと思うんですよ。残念。でもおかげで、天才の秀吉が日の目を見ることになりました。

そんなこんなで秀吉が信長の事業を引き継いだんですが、じゃあ信長が長生きしていたらどうだったのかというと、どちらかと言えば秀吉のほうが信長より上手くあれこれ進められたんじゃないかなって想像しています。

というのも、秀吉は、天才信長を、見てきていたから。良いところも、悪いところも全部。岡目八目なんてこと言いますが、信長自身じゃ気づけなかったことにも秀吉は気づけたり、なんてのもあったと思うんですよね。

あと上手いこと亡き信長の名前を利用しての外交なんかもあったと思うんです。例えば茶々から父の仇と責められても、いやあれは信長の命令で仕方なく、なんて言い訳したり。(笑)

ま、秀吉が継いで、いい感じにブーストがかかり、全国統一も成し遂げました。でも秀吉も死んじゃいます。寿命がきちゃいました。満62歳。でもね、秀吉にもいたんですよ、共に時代を歩んできた奴が。主家に取って変わって君臨してやろうという野心家で、6歳下のタヌキが。

あ、さっきの話、家康は絶対に言ってますよ、朝鮮や明に。あれは前の為政者の秀吉がやったことで、自分は関係ないからねって。

家康は信長のこともずっと見ていたし、秀吉のこともずっと見ていた。そして、自身もまた天才だった。信長が思い描いた夢とも秀吉が思い描いた夢とも違うものでしょうけど、二人の天才の夢を、江戸幕府という現実に落とし込んだ。大坂の陣を経ていよいよ天下も定まり、「元和偃武(げんなえんぶ)」と言われます。

1867年の大政奉還まで続く江戸時代は、信長、秀吉、家康の三人が作り上げた時代だと、そう思います。主家を乗っ取り、いいとこ取りと改善を繰り返して。

少しずつ年が離れている、でも離れすぎていない、というのもよかった。信長と家康の年の差は9歳。開幕までを信長が一人でやるとすれば、1603年の信長は69歳と、ちょっと年を取り過ぎでしょう。

幕府開いてすぐに召されるわけにもいかないし。逆にもう少し、仮に20歳離れていたとしたら、桶狭間の戦い時に家康が6歳の計算に。ちょっとまだちびっ子過ぎで、信長の凄さも分からないし、三河を任されるのも無理で、織田家との同盟もないでしょう。

ちなみに明智光秀は、信長より6歳上です。

◎──長いような短いような260年

1600年の関ヶ原の戦いで頂点に立ち、1615年の大坂夏の陣で豊臣を滅ぼして、この国を手にした家康。開幕からおよそ260年ほど幕府は続き、ずっと徳川の世というわけです。

この260年を長いとみるか短いとみるかは人それぞれで、まあ人の一生の三~四回分、徳川将軍の十六代分と思えば、それなりの期間だとは思うんですが、倒幕の火種はそもそも関ヶ原にあったと聞くとどうでしょう。遺恨が過去の歴史に埋もれるには、260年じゃ足りないってことでしょうかね。

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