ざっくり日本の歴史(その1)

本記事は2015年02月02日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

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◎──原始

国の形がそれなりに整うまでの、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代くらいをここに入れようと思います。先に挙げた最古の遺跡が約9万年前のもので、1万6500年前くらいまでが旧石器時代。

昔過ぎるわ、長すぎるわでぜんぜんピンときませんが、名前の通り石器を使い始めた時代。最初は、砕いただけでそのままナイフのように使える石器などを使っていましたが、約3万年前には加工した石器を使い始めたようです。

1万6500年前くらいから3?1000年前くらいまでが縄文時代。縄目模様で有名な、縄文土器を作って使ったり、竪穴住居を作ったり、後に貝塚と呼ばれる共同のゴミ捨て場作ったりした時代。

三内丸山遺跡がある青森の方には馴染みのある時代かも。一昨年行ってきましたが面白かったです。竪穴住居、意外と暮らしやすそうでした。寒くなければ。

縄文時代に続くのが弥生時代。米作り始めた頃です。既に縄文時代から稲作は始まっていたと最近は言われていますが、いいじゃないですか、昔のことだし、だいたいで。

米を作ったり、それを貯蔵したりが始まって、「富」を持つもの持たざるものが出てきました。国のようなものもいくつもできてきて、衝突し国同士の戦いも発生。またこの辺りからやっと記録として当時の姿が残るようになります。まだ日本ではそういった文化はなくて、中国の歴史書にですけど。

中国はもう、一歩も二歩も先に進んでいます。孔子が出てきたの、紀元前6世紀ですよ。漫画『キングダム』の時代、秦の始皇帝が紀元前3世紀。

『後漢書』の東夷伝によると、西暦57年に奴国の王が後漢から金印を授与されたそうです。その金印は福岡県の志賀島で発掘されました。すげー。そして、『魏志倭人伝(『三国志』の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)』には、邪馬台国と卑弥呼が登場します。2世紀頃の話。

日本もそれなりに文明は発達していて、というか、中国に使者を送って金印をもらってくるくらいですから、弥生時代も後半になれば、多くの人が想像する弥生時代よりはずっと文化も進んでいます。

30年ほど前に、銅剣が山ほど発掘された出雲の荒神谷遺跡もこの頃のもの。2007年に出雲大社のお隣に作られた「島根県立古代出雲歴史博物館」にいくと、銅剣がずらーっと並んでいる部屋があって、それはそれは壮観でした。

3世紀中頃から6?7世紀頃が古墳時代。古墳作ってた時代です。でっかいお墓を作れるくらいに権力を持った人が出てきた時代。大阪府堺市には世界最大面積のお墓、大山古墳があります。仁徳天皇陵と呼ばれていたものです。

この辺までが原始。ちなみに、女性が太陽であったのは「元始」です。

◎──古代

飛鳥時代、奈良時代、平安時代をここに入れます。天皇中心の国家が形作られ、政治の中心が天皇であった時代です。その中心となる場所が主に飛鳥にあったのが飛鳥時代、奈良にあったのが奈良時代、京都にあったのが平安時代。飛鳥も奈良ですけどね。また、途中、大阪に移ったりもしてますけど。

飛鳥時代は6世紀後半から8世紀の最初くらいまで。飛鳥時代の代表的な人物は、なんと言っても聖徳太子。ゴクミも知ってる聖徳太子。今の受験生は聖徳太子は知ってても、ゴクミを知らないんでしょうけど、593年に推古天皇の摂政に。

中国は隋の時代。隋の皇帝である煬帝に「日の出の国からコンニチハ」ってな手紙を書いて持ってって怒られました。遣隋使ご一行も小野妹子もドキドキの旅だったことでしょう。

仏教が伝来したり、政権をめぐって蘇我氏と中大兄皇子が争ったりと、そんなこんなの時代。蒸しご飯で祝う大化の改新。645年に、中大兄皇子と中臣鎌足が共謀して時の権力者であった蘇我氏を討ちます(乙巳の変)。

中臣鎌足の子孫は、後の世で幅をきかせる藤原氏です。また中大兄皇子は後に天智天皇となり、その後継を争って壬申の乱が起こったりと、この時代もあれこれ書いていくと面白いんですが、キリがないので割愛。漫画で里中満智子さんの『天上の虹』『長屋王残照記』をどうぞ。

乙巳の変の後、皇位についた孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)へ都を移しますが、またすぐ都は飛鳥に戻されます。残念。その後、飛鳥浄御原宮や藤原京を経て、710年、ナント見事な平城京。そこから奈良時代です。

奈良時代と言えば、東大寺に大仏が作られたりと、仏教文化が花盛り。全国に聖武天皇が国分寺を作らせたり、仏教の力で国を安らかに治めようとします。聖武天皇の娘、孝謙天皇が作らせた百万塔陀羅尼は現存する世界最古の印刷物と言われています。里中満智子さんの『女帝の手記─孝謙・称徳天皇物語』は、まさにこの時代のお話。なお、孝謙天皇=称徳天皇、です(重祚)。

壬申の乱で政権を勝ち取った天武天皇の系譜は称徳天皇で途絶え、天智天皇の系統にまた皇位が戻ります。光仁天皇を経て桓武天皇が即位。784年に長岡京、794年に平安京へ遷都します。鳴くよウグイス平安京。平安時代の始まりです。

奈良時代、仏教の力で国を安定させるぜと鎮護国家の思想に走ったんですが、要するにいまいち安定してなかったんですよね、たぶん。仏頼みに走るほどに。

おまけに聖武天皇も病弱だったし、その先ずっと後継者問題に悩まされ続けて、ついに孝謙天皇の代で行き詰まるし、当時の天皇からすればご加護はどうしたよって状態に。大仏まで作ったのに。ご加護の方はそんな状態なのに、奈良の仏教勢力は力を強化し続けてるし。

ちょっとこれはもう、奈良は離れて、心機一転リスタートしようと都を移したのが桓武天皇。地方分権を進めたり、課税制度を見直したり、戸籍を整えたり、東北に軍事遠征したりした時代。

桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北に軍を送ったり、最澄や空海を「仏教界に新しい風をいっちょ頼むわ」と庇護したりと、自らせっせと政治を行ったけど、平安時代と言えば藤原氏の摂関政治がメイン。

天皇の外戚になって、政治の実権を握って栄華を極める藤原氏。きらびやかな貴族の時代、宮廷を中心に文学も隆盛。清少納言や紫式部が出てきた時代です。

平安京はこの後、明治になって実質的な都が東京に移るまで、ずっと都でした。

貴族とともに、武士も次第に台頭。天皇家と摂関家をそれぞれ二分する大きないざこざを契機に、のし上がった武士団が平氏。政治の実権が武士に移ることで平安時代から次の鎌倉時代へ。古代から中世へと時代が進みます。

◎──今回はここまで

最初はもっと駆け足で、今回だけで中世も近世も近現代も一気に書いてしまえと思っていたのですが、とても無理でした。このあと、どんどん長くなっていきますがお付き合いください。

なお、歴史区分は研究者によって区切りがまちまちらしいので、今回は適当に。

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