ざっくり日本の歴史(その17)

本記事は2015年10月05日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

前回に引き続き今回ももう少し徳川綱吉の時代のお話を。

綱吉が側用人を置いて将軍の力を増大させたと書きましたが、その強くなった力を発揮したのは生類憐れみの令だけではありません。綱吉はここに書き切れないほど、様々な改革を断行しています。特に、傾きつつあった幕府財政の立て直しに腐心するのですが、その中から有名なものをひとつ。

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◎──貨幣改鋳

貨幣の改鋳というのは、何をしたかというと、出回っている金貨銀貨を回収し、それぞれ金の含有量、銀の含有量を減らして鋳造しなおしたんです。

例えば、純度80%の金貨を50%にして鋳なおすと、30%分の金が浮きますよね。80%の金貨五枚で、50%の金貨を八枚作ることができる計算になります。

差分で幕府丸儲け、なんて単純な話だけではありません。今の感覚で言えば、まあ厳密にはかなり違いますが、国がお札や硬貨を増産した感じです。市場に出回る通貨量を増やしたわけです。

金融緩和政策で通貨の流動性を高めた、と。現代でも行われている経済刺激策です。また幕府が通貨の価値をコントロールするというのは、実物貨幣から信用貨幣へのシフトとも言えます。

どこまで狙ってやったのか知りませんが、これを主導した荻原重秀は、天才というか、現代人がタイムスリップしたのかって感じです。

『JIN』や『信長のシェフ』のような。

貨幣改鋳ほかさまざまな経済政策が功を奏して、幕府財政もそれなり持ち直し、さらに世間の景気も「元禄バブル」と呼ばれるほどよくなりました。

文治政治を推し進めて平和な空気を醸成し、経済施策もヒットした。それらを背景に、いわゆる「元禄文化」が花開くんですね。

まあ元禄バブルは富士山噴火で派手に吹っ飛ぶし、次の世代の連中は政治的な思惑もあってか、綱吉時代とは真逆の方向に舵を切ったりするんですが。

◎──元禄文化の時代(前後含む)

綱吉の政治が良かったのか、時代の要請か、単なる偶然か、この時期に文化面で奇跡のような時代が登場します。江戸時代の文化と聞いて思い浮かぶような有名どころの大半がこの時期に集中してるんじゃないかというほどの。

文芸では、俳諧の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、古典研究の契沖、劇作家の近松門左衛門、文楽(人形浄瑠璃)の竹本義太夫、歌舞伎の市川團十郎。思想では、中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、荻生徂徠、太宰春台、伊藤仁斎。科学では、和算の関孝和、改暦を実現した渋川春海、農学の宮崎安貞、本草学の貝原益軒。美術では、尾形光琳、俵屋宗達、菱川師宣。

学校の授業なんてほとんど寝てたという人でも、ここに挙げた名前をひとつも見たことがない人はいないでしょう。林鵞峰による『本朝通鑑』、徳川光圀の『大日本史』といった史書編纂事業もこの時期のことです。

この面々の中では契沖が少し地味(失礼)かもしれませんが、古典研究を行い、古典を元に歴史的仮名遣いを研究、『和字正濫抄』を著し、「契沖仮名遣」を定めた人です。

徳川光圀の依頼により万葉集の注釈書『万葉代匠記』も著しています。なぜことさらここで取り上げたかというと、契沖が最晩年を過ごして、その墓もある円珠庵が、うちの近くで。(笑)

方角は違いますが同じく近所に、近松門左衛門の墓もあります。江戸時代後期の化政文化は江戸中心ですが、元禄文化は上方中心なのです。

◎──冲方丁『天地明察』

唐突ですが、以前にも紹介した冲方丁の小説『天地明察』について。映画化もされましたが、これはまさにこの時代の話で、囲碁の大家に生まれた安井算哲が、暦のずれに気づいて改暦を志し成し遂げる話です。綱吉も光圀も保科正之も関孝和も山鹿素行も出てきます。

小説なので、もちろんフィクションも多く含まれますが、史実に基づいた話です。文庫で上下巻と少し分量はありますが、読みやすく、なにより面白いです。コミカライズもされていますので、是非。

その安井算哲(渋川春海)と、関孝和もご紹介。

◎──安井算哲(二代目安井算哲・渋川春海 1639年〜1715年)

少し時間を巻き戻して、豊臣秀吉の時代。大坂城の外堀などを掘った安井道頓(どうとん)は、さらに東横堀川と西横堀川を結んで木津川に繋ぐ水路を掘る事業に着手。

本人はほどなく大坂の陣で亡くなりますが、身内や協力者が引き継いで、1615年に完成。安井道頓を偲び、また相当な私財を投入した功を称え、「道頓堀」と名付けられます。

司馬遼太郎の短編『けろりの道頓』では、この道頓堀は、秀吉へ妾を差し出した褒美に受け取った鯉を泳がせるため掘った、という話になっていますが、もらった土地の水運のためというのが主のようで。

今ではグリコの看板やかに道楽で有名な道頓堀ですが、この話をしたのはまあ、大阪の話をしたかっただけ、ではなくて。道頓の甥っ子が、古算哲と呼ばれる初代安井算哲。渋川春海のお父さんなのです。

初代だ二代目だと「安井算哲」ってただの人名じゃないのかと疑問に思われるかもしれませんが、安井家は碁の大家でして。

当時、碁と将棋は武家の嗜みとして幕府からも厚く保護されていました。家元制度が設けられ、安井、本因坊、井上、林の四家が碁の家元に指定されました。安井算哲(以後、古算哲)がその家元・安井家の初代となります。

古算哲にはなかなか跡取りができずに、弟子を養子としたのですが、ほどなく長男ができてしまいます。できてしまいます、ってのも失礼な話ですが、家を継がせるために養子を取ったのに実子ができちゃったというのは、前に書いた応仁の乱を思わせる、お家騒動の火種みたいなもの。

ここで古算哲はどうしたかというと、もうどっちも跡取りでいいよねってな、離れ業をみせてくれました。養子には安井算知としてお家を継がせ、実子には安井算哲の名を継がせました。この二代目安井算哲が、渋川春海です。

二代目安井算哲(以後、春海)は、碁の腕前もさることながら、算術や天文学にも興味を持って才能を発揮する人でした。春海はある時、暦が実際とずれていることに気がつきます。

当時の日本の暦は、862年に中国(唐)から伝わった暦法である「宣明暦」から作られていました。およそ800年前の暦法をずっと採用していたんです。

暦というものはそもそもずれるもので、そのずれを解消するために閏年を入れたりするのが暦法なんですが、「宣明暦」による計算ではもうこの800年の間に、2日ほどのずれが生じていました。

暦は、大雑把に言えば、太陽や月の運行を元にして時間を区切ったものですが、地球の自転周期は約23時間56分4.0950秒、月の公転周期は約29.530日、地球の公転周期は約365.2422日と、端数があるため、これらを基準にする以上、整数で日時を定めれば必ずずれてくるわけです。

現行のグレゴリオ暦は、太陽暦と呼ばれる、太陽を基準とした比較的シンプルなものですが、当時の暦は月を基準とした太陰暦を軸にして、季節に連動する太陽暦とも組み合わせた太陰太陽暦と呼ばれるもので、その計算は非常に複雑なものでした。

ですから、今のように誰にでもカレンダーが作れるわけではなく、毎年10月までに次の年の暦を計算して作って発表する、という形式でした。

暦法、簡単に調べてみましたが、理解できませんでした……複雑です。

暦を作っていたのは原則的には朝廷で、その部署である陰陽寮の秘伝でしたが、まあ800年も使っていれば暦法は他にも伝わり、各地で作られていました。でも同じ暦法で作っているので、ずれの問題はそのままあって。

実測から暦のずれを明らかにした春海は、暦法の改正に乗り出すわけですが、これはとんでもない規模の一大国家プロジェクトなんです。

暦には月日のほか日々の吉凶、日食、月食の日なども記されていて、となれば、月食が起こると書かれている日に起こらない、ということが起きてきている。にも関わらず、暦法を改めようとする人がいなかったのは、伝統を守るとか、そんな話以前に、「途方もなく大変なことだから」だったと思います。

まず単純に、新しい暦法を作るためには、膨大な実測と計算と検証が必要、という手間の問題があります。そしてある意味もっと大変なのは、朝廷に対して、この国で800年使ってきた秘伝の暦法は狂いが生じているので改めましょう、と提案して認めてもらうことです。政治的にも大いに困難な事業なんです。

春海には、碁を通じて知己を得た保科正之、徳川光圀という、歴史的な偉人がバックアップしてくれるという幸運もありました。

ある時、安井算知が保科正之に、「義弟の算哲(春海)が天文暦術を研究することにはまっていて、家業をおろそかにしているんです」と悩みを打ち明け、それに対して保科正之が「碁に優れた者は他にもいるのだから、天文暦術への志を応援してやりなさい」と答えたというエピソードがあります。

また徳川光圀の場合、自身の歴史編纂事業にとっても、正確な暦法や天文暦術の研究は不可欠だったという事情もありました。

そんなこんなで、春海は改暦事業に取り組むことになり、それはそれは大変な困難を乗り越えて、新しい暦法「貞観暦」を完成させることになります。

最後えらく省略しましたが、そこは是非『天地明察』を読んでください(笑)。

カレンダー作るってのがそんな大ごとなのかと思いますが、上から下まですべての人の生活の基準が暦なんです。朝廷の儀式も、幕府の政務も、町人の商売も、農作業も、暦が支えていると思えば、まあそうなのかなと納得できます。

暦にはどんなことが書かれていたのか、雰囲気を知りたければ、少し大きめの神社に行けば数百円程度で売っています。もちろん暦法はグレゴリオ暦ですが、いま手元にある伊勢神宮の暦には、日付、干支、月齢、旧暦との対応、月の出入り時刻、潮の満干、祭事、農作業の目安などが載っています。たぶん昔も、だいたいこんな感じだったのではないでしょうか。

◎──関孝和(1642年〜1708年)

『天地明察』では、春海が半ば一方的にライバル視している、和算の天才です。日刊デジクリでもおなじみ、フォントおじさんこと関口浩之さんの故郷、群馬の偉人で、群馬の郷土かるたの「上毛かるた」にも、「(わ)和算の大家、関孝和」と出てきます。

ここでは、どれくらいすごいのか、というのを伝えたいのですが、すごすぎて、数学オンチの私の手には負えません。1681年頃のこと、円周率を計算するため、正131072角形から小数第11位まで計算して「3.14159265359微弱」としたとか。著書の中で1458次方程式を立てて解く解法を記したとか。ベルヌーイ数という数列をベルヌーイ(スイスの数学者)より少し早く発見していたとか。

江戸時代、和算(数学)は、学問と言うだけでなく、庶民の楽しみの一つでもあったそうで。今で言えば、クイズやパズルみたいなものですかね。

問題集が刊行されて、その最後には「遺題」という、解答を載せない「読者への挑戦」が記されて、それを受けてまたそれを解いた本が刊行されて、その最後にまた遺題が提示されていて、という流れもあったようです。

この「遺題継承」は、おそらく出題者も回答者もムキになったんだと思うのですが、どんどん高度化、複雑化していって、1458次方程式が必要になるような問題が生まれたようです。

まあおかげで関孝和のような人物が現れ、日本の数学が驚異的な発展を遂げたという。関孝和はともかく、市井にも数学愛好家が多く、自分が考えた問題や解法を算額として寺社に奉納して掲示したりもよくあったようです。

数学が趣味とか、私には理解しがたい。(笑)

中学受験の勉強をされた方にはおなじみの「鶴亀算」「旅人算」は、今に残る和算の代表です。「鶴と亀が合計16匹いる。足の数が合わせて60本の時、亀は何匹いるか?」ってな、あれです。

すべてが亀だと仮定すると、足の本数は64本で、実際の本数より4本多くなる。鶴は亀より足が2本少ないので、この4本を2で割った分だけ、鶴がいることになる。つまり亀は14匹、鶴が2匹、と。

数学記号が発達していないので、基本的に文章題や図形問題になります。解答も文章に。今はもちろん数学記号も使いますが、和算愛好家は現代にもいて、算額の奉納もあるようです。和算を広める活動をするNPOも。

・特定非営利活動法人 和算を普及する会(NPO WASAN)
< https://i-wasan.sakura.ne.jp/npo/ >

◎──今回はここまで

自分がよく理解できていないものを人に紹介する困難さを味わった今回ですが、『天地明察』があまりに面白かったので、共有したかったんです……原作小説しか読んでいませんが、漫画も映画もあるので、ぜひ一度ご覧ください。

また今回の話を書くにあたっては、雑誌『歴史読本』2012年10月号をおおいに参考にしました。

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