ざっくり日本の歴史(その16)

本記事は2015年09月25日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

さて今回は、学校で習った歴史の授業なんてほとんど覚えてないってな方でも、名前くらいは記憶の片隅に残っているであろう第五代将軍のお話から。

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◎──徳川綱吉(とくがわ・つなよし/1646年2月23日〜1709年2月19日)

徳川綱吉。そう、生類憐れみの令の将軍です。お犬様のあの人です。犬だけでなく、虫を殺しても罰せられるような無茶苦茶な法律つくって庶民を苦しめたんでしょ、って思われている綱吉ですが、近年、評価が好転しています。

そもそも、不運とか色んな事情があいまって、不当な評価を植え付けられた、残念な人でした。まずひとつは、次の将軍である徳川家宣が、綱吉のやり方を刷新したこと。当然、「改善する」という前提なので、綱吉のやったことには否定的だということです。

生類憐れみの令も、ほとんどを即廃止。綱吉は家宣に、死後も三年間は続けてねって頼んでいたのに。家宣、個人的には守ってたらしいですけども。

続いての不幸は、江戸時代から今にいたるまで、『水戸黄門』、『忠臣蔵』が大人気だということ。どちらでもだいたい悪い印象の役で登場します。

さらなる不幸は、治世の晩年に天災やら火事やら飢饉やらが頻発したことで。富士山まで大噴火しています。皮肉なことに、綱吉が力を入れて奨励していた儒学では、災害が起こるのは統治者に徳がないから、なんです……

で、評価が好転してきているのは、ひとつは「揺り戻し」かと。さっき挙げたような理由でマイナス評価というのは、さすがにかわいそうじゃないかって。どう考えても富士山の大噴火は綱吉のせいじゃないだろうって。(笑)

もうひとつは、生類憐れみの令は、現代の感覚でみれば動物愛護法ではないかという評価から。時代を350年ほど先取りした、先進的な法律だったということで。

それだけでなく、生類憐れみの令って犬を殺しちゃダメっていうような単純なものじゃないんですよね。

そこだけクローズアップされて、挙げ句に、綱吉が生類憐れみの令でことさら過剰に犬を保護したのは、跡取りに恵まれなかった綱吉が「それは戌年生まれのあんたが前世で犬を殺したからだ。だから、犬を大事にすればいい」と、綱吉の母親がかわいがってた僧侶に言われたからだという俗説まで広まって、自分のためにまわりを苦しめた悪法扱いされています。

◎──生類憐れみの令

生類憐れみの令というのは、ひとつのまとまった法律ではなく、複数のお触れの総称です。うまいこと名前がついていますが、綱吉が発した「生類憐れみ」にまつわる法律は、犬だけでなく、人間も含めた生き物全般が対象です。仏教的な観点から「生き物の命を大事に」というだけでなく、戦国時代からの流れでどこか生命を軽んじる気風を改めようとする意識改革の意味合いがあったとも言われています。

また、野犬が減ったり、病死した牛馬がうち捨てられることがなくなったりで、公衆衛生面でのプラスもありました。犬については、飼い犬の登録制度が作られたり、ほんと時代を超先取りしたようなところがあります。

また、違反して厳罰に処せられた人も確かにいますが、実際には適用は緩く、特に地方では普通に魚も鳥獣も食べられていました。

文治政治への転換を図るため、殺伐とした気風を改めるため、安心して暮らすことができる平和な世の中にするため、あの手この手を尽くしたことの総称が「生類憐れみの令」と呼ばれる一連の施策だった、というところみたいです。

先に、家宣に三年は続けるように言い遺したと書きましたが、逆に言えば綱吉自身も、期限を切るつもりだったということでしょう。

結果、まあ天災には見舞われていますが、それなり平和な世の中になりました。

(参考)・生類憐み政策の成立に関する─考察─近世日本の動物保護思想との関連で 
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&meta=%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%81%BF%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B&count=20&order=0&pn=1&st=1&page_id=13&block_id=83 >

◎──側用人

綱吉と言えば、水戸黄門などの物語では側用人の柳沢吉保が悪役で登場します。側用人というのは、綱吉が新たに取り入れた役職で、まあ将軍の側近です。

それまで幕府の政治は、老中と呼ばれる重臣の合議で進められて、将軍はその重役会議で決まったことに判を押す役目、といった感じでした。

これは家康が、あまり将軍に大きな力を持たせないようにするために仕込んだシステムと見られています。将軍職は基本的に世襲制なので、代々みんながみんな有能とは限らない、という懸念からとのことで。

綱吉はその老中たちと将軍との間に、側用人というポストを挟んでひとつ距離を置くことで、将軍の意向を差し挟む余地をもうけました。つまり将軍の権力が増した形になります。それが生類憐れみの令を推し進めることにも一役かったと思われます。

また、老中たちは基本的に家柄で選ばれるのに対して、側用人は能力を買われての登用でしたので、優秀な人材を側に置くことができる仕組みになりました。このポストは家宣以降にも引き継がれます。

◎──赤穂事件

以前に予告だけしていて延び延びになっていた赤穂事件も、綱吉の時代のこと。本当は赤穂事件については、一回分まるまる使ってあれこれ書くつもりだったんですが、あまり深入りしても危険な感じだったので、軽く済ませます。(笑)

『忠臣蔵』として有名な赤穂事件ですが、忠臣蔵というのは赤穂事件をもとにした人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』から、この事件を題材にした物語の総称になったものです。また赤穂事件と言いますが、舞台の中心は江戸です。

主要人物である浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が赤穂藩の藩主なのです。「内匠頭」は官職名で、名前は浅野長矩(あさの・ながのり)です。

経緯についてはよく分かっていない部分も多く、諸説あるのですが、超簡単に。

綱吉:「こんど朝廷の偉いさん招くから、浅野内匠頭、接待してな」

浅野:「かしこまり!」

綱吉:「吉良上野介、面倒見たってな」

吉良:「がってん!」

浅野:「吉良さん、よろしゅー」

吉良:「はいはい。(ウソ教えたり、意地悪したろ)」

〜浅野、大変な目に遭う。

そして、接待当日。江戸城内にて。

浅野:「吉良ァ! こないだの恨み覚えてるかっ! 斬ったる!!!」

吉良:「うわ! なにすんねん!」

周り:「殿中でござる! 殿中でござる! そんなことしたらあかんて!」

ってなことがありつつ、浅野内匠頭は取り押さえられ切腹することに。お家も取りつぶしに。

それを受けて、浪人となった赤穂の家臣団が、主君の仇討ちと吉良上野介を襲撃して殺害したというのが、だいたいの大筋です。

この中で、「ウソ教えたり、意地悪したろ」の部分は、物語での創作部分で、実際には二人の間に何があったのか分かっていないんです。

どうも浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる時に、この間の遺恨を晴らすとかなんとか言ったとされていて、そこから想像しての創作で。まあ、ウソを教えられたというのはないだろうとも言われています。浅野内匠頭、こういう接待担当したの、初めてじゃないので。

でもまあ、そこはひとまずいいんです。何があったにせよ、江戸城で、しかも大事な接待の日に刃傷沙汰を起こしたのは事実ですし、切腹もお家取りつぶしも当然のことなので。家臣団を束ねる大石内蔵助さえ納得しています。

家臣や世間が不満に思ったのは、将軍は吉良上野介のことは責めず、お見舞いを述べたことです。「え、喧嘩両成敗じゃないの?」って話。

ここで問題は、それは喧嘩だったのか、です。ようするに幕府は喧嘩とは見ず、一方的な傷害事件としたのに対し、世間は遺恨絡みの喧嘩と見たと。

ぶっちゃけ理由も不明でよくわからないので、次の問題に進みます。

裁定に不服だった赤穂の家臣団は、主君の仇と吉良を討ちます。が、それって、仇討ちなのか、という問題。斬りつけたのは浅野です。斬られたのが吉良です。浅野を処分したのは幕府です。なんで吉良を仇として討つことになるのか。

浅野が吉良に嫌がらせを受けていたのが事実であれば、事件の原因をつくった吉良は仇と言えなくもないですかね。でもその肝心なところはよく分かっていないんで、問題がすっきりしない。

分かっていないというのは、今となっては分からない、というのではなく、当時から分からなかったようです。なぜ浅野は吉良を斬りつけたのか。本人も何も語らずで。

主君のやり残したことを代行した、ということで、不明点は多いもののやっぱ、大石内蔵助たちは「忠臣」なのかなというところですが、もし吉良が潔白なら、ちょっとどうなんだろうって感じですよね。

当時から評価は分かれていました。当時からずっと、大論争です。さらにその主張、特に赤穂義士を支持する側の主張は、幕末維新、日露戦争、太平洋戦争にも影響を及ぼすほどです。

創作物語のせいで世間は圧倒的に赤穂支持派ですが、反対派もいて、なかなかにこのあたりはアンタッチャブルな話題になっています。吉良上野介の領地や出身地などでは吉良が支持されていますし、一方の赤穂義士には熱烈な支持者がついていますし。

前も紹介した『逆説の日本史』で井沢元彦氏は、吉良側についての論を展開し、赤穂義士を偲ぶ「中央義士会」という団体から激しく批判されています。

・「逆説の日本史 忠臣蔵の謎」反論 (WaybackMachineによるアーカイブ)
https://web.archive.org/web/20220126140354/http://www.chuushingura.net/oshirase1.html >

『逆説の日本史』もこの反論もどちらも読みましたが、内容としてはこの反論のほうに分があるかなといった印象です。

ただこの反論、井沢氏をものすごい口汚さで罵り倒していて、どれだけ主張が真っ当であったとしても、これではむしろ義士を貶めてしまっているんじゃないかと感じました。もったいない。

赤穂事件については実際はもっとあれこれポイントがあるんですが、詳しくはウィキペディアか本でも読んでみてください。(逃)

なお、吉良邸に討ち入り思いを果たした、一般的に四十七士と呼ばれる義士は、もちろん処罰されて切腹するのですが、ここで討たれた側の吉良家にも処罰が及ぶことになります。

しかも、討たれた時の騒ぎについてでなく、そもそもの刃傷事件にまつわる吉良上野介の態度に対してということで。それって結局、幕府は裁定にミスがあったと認めたようなものですね。

あ、四十七名が切腹したように書きましたが、切腹は四十六名です。これまた論争のタネなんですが、一人、討ち入り後に行方不明になっているんです。

◎──今回はここまで

以前、仕事のついでに、浅野家と四十七士のお墓がある赤穂の花岳寺をお参りしてきました。実際に葬られているのは、最後の切腹の舞台にもなった東京の泉岳寺にあるお墓ですが、花岳寺は浅野家の菩提寺なので浅野内匠頭の父や祖父のお墓もあります。祖父は以前紹介した、浅野長直です。

また、ゆかりの品を展示している義士宝物館も併設されています。泉岳寺にも同様の赤穂義士記念館があるそうです。機会あれば、覗いてみてください。

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