ざっくり日本の歴史(その27)

本記事は2016年5月30日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

今回から幕末の話に移ろうかと思いつつも、出来事が複雑すぎて何から手を付ければいいのやら。プレイヤーも山ほどいて、主義主張も入り乱れてるし。

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』もそうでしたが、幕末を題材にした作品って、ドラマ、小説、漫画などでも星の数ほどあって、それは、やはり人気の高い時代だからなんでしょうけど、それらを見たり読んだりした人でさえ、今ひとつよく分からないのがこの「幕末」じゃないでしょうか。

幕末モノでよく登場するのは、新撰組と維新志士。もうこれさえ出しておけば失敗はしないというくらいの人気を誇り、時代小説からBLゲームまであらゆるジャンルで取り上げられていますが、「沖田総司かっこいいよねー」って人もやっぱり幕末全体の流れを知っている人は少なかったりします。

キャラ萌えと歴史は別物というか。まあ実際に、新撰組の沖田総司と言えば、
知らない人はいないくらいの有名人ですけど、歴史の中で何をしたかってなる
と、個人では特に名を残すような影響はなかったりして。

さて、前置きが長くなりましたが、まにころではまずは全体をざっと眺めた後、個々の人物や団体にフォーカスして、なんとなくふんわり幕末の空気に触れていただけたらと思います。難しいので、興味を持ったなら後は各自にお任せという投げっぱなしスタイルで行くことにしました。

まずは、最低限知っておきたいことをいくつか。


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◎──幕末っていつ?

幕末、幕末って言うけど、いつからいつが幕末なのか。こんなことさえ意見が分かれるのが幕末。江戸幕府末期、だから幕末。

ということで、終わりはまあ、幕府がなくなるまでかなと思いきや、明治の初期まで含んだりもします。

幕府がなくなった後もしばらくは旧体制が残っていたので、それが片付いたところまでが幕末ってことで、廃藩置県、版籍奉還までとしたりします。

幕末の開始時期も、一番分かりやすいのはペリーの来航からとするものですが、ペリーもいきなりやってきたわけでなく、そこに至るまでに既に幕府は色んな意味で末期を迎えていましたので、鎖国体制がぐらつき始めたあたりから幕末とする考え方もあります。

また、ぐらつく幕府を片付けて、新しい政治体制を求めた動きをひっくるめて明治維新と呼びます。

明治維新の時期も人によって定義がまちまち。明治維新というくらいだから明治元年からだろうと思うのですが、前年の大政奉還からとしたり、そこに至る出来事も含めたり、前後にちょっと幅があります。

終わりも、廃藩置県、版籍奉還までとしたり、西南戦争が終わるまでとしたり、内閣制度ができるまでとしたり、大日本帝国憲法が公布されるまでとしたり。

まあ、だいたいその辺の時代ってことです。

◎──新撰組 vs 維新志士

先にも挙げた両者ですが、これらの登場する作品に触れたことがある方なら、それぞれの立場も少しご存じかもしれません。あくまでも「かもしれません」で、まったく知らない可能性もなきにしも非ずというのが面白いところで。

大雑把に言うと、新撰組は、武士として幕府を守るぞーという一派(構成員が実際に武士とは限りません)。維新志士は、幕府を倒して新しい政治体制を作るぞーと志す人たちです。

前者は団体名ですが、後者は団体ではないので色んな考えの人がいます。基本的には志士は藩の枠組みを超えて個人に焦点を当てた呼び方で、脱藩者や浪人、士族以外が中心です。

有名なので新撰組を取り上げましたが、幕府を守るぞーというのは新撰組だけではなくて、他にもいます。幕府を守るぞ助けるぞ、というのが後で出てくる「佐幕」です。(佐=たすける、の意)

◎──尊王攘夷?

日本史の授業で習うのでなんとなく刷り込まれる幕末ワード、尊王攘夷。尊王とは天皇を尊ぶこと。もう少し言えば、天皇を中心とした政治体制を目指すことまで含んだりします。

元々は中国で生まれた言葉で、古代中国の春秋時代を背景に周王室を尊ぶ思想を指す言葉なので、「王」の字になっています。

勤王というのも、まあ似た感じの言葉です。文字からいけば、尊王は思想に軸を、勤王は行動に軸を置いた言葉でしょうか。

攘夷というのは、外敵を退けようという考え。一般的にはアンチ開国派ですが、開国して欧米列強の技術を取り入れた上でそれらに対抗しよう、という攘夷派もいたので、「欧米列強を退けよう」という考え方ということで。

アヘン戦争の話をはじめ、欧米がアジア・アフリカを食い物にしようとしていたことへの危機感によるものです。

ややこしいのは、佐幕という、幕府を補佐するという幕府寄りの立場があって、尊王に対立する言葉として捉えられがちなこと。尊王は天皇を尊ぶことですが、佐幕は別に天皇をないがしろにする考えではありませんので、対立はしません。

この時代、幕府自体も含め、ほぼ全ての人が尊王です。中には長州のように、武力で京都から天皇をかっさらおうとする輩もでてきますが、それもまた尊王の意識があるからこそってことで。あくまで、佐幕の反対語は倒幕です。

もっとも、政治の中心を天皇(朝廷)と幕府のどちらに置くべきかという問題はあり、天皇の権威と幕府の武威を結びつけて強固にしようという、公武合体という考え方も出てきます。

第十四代将軍・家茂と、仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹である和宮の婚姻(降嫁)は、公武合体派の思惑によるものです。和宮は婚約破棄してまでの政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。

◎──水戸学

あまり学校ではしっかり習った記憶がないのですが、明治維新の原動力はこの水戸学によるところが大きいと言われています。水戸学というのは、水戸藩で形作られた学問、思想で、朱子学を中心に広く様々な学問を統合したものです。発端は水戸光圀による『大日本史』編纂の開始から。

水戸学という名前の固有の学問というわけでなく、様々な学問を取り入れつつ、それらが水戸藩の空気によって方向付けられていった結果、特徴を持った学問とみられるようになったもの。その特徴がまさに「尊王」です。

以前にも何度か出てきましたが、水戸藩は徳川御三家なのになにかと尊王派。幕府より天皇を立てる気風が強くあります。

前にも一度触れ、またそのうちに改めて触れると思いますが、徳川幕府最後の将軍、第十五代徳川慶喜は、水戸家から一橋家に養子に入り、紆余曲折を経て将軍の座に着いた人物です。

元々、水戸家は御三家の中でも一番家格が低く、さらには吉宗によって御三卿が立てられたことで、将軍を輩する可能性なんてほぼゼロだったのに、何の因果か水戸の出身者が将軍になりました。

さくっと大政奉還して最後の将軍となったのも、もしかしたら水戸の血がそうさせたのかもしれません。いや、ぜんぜん関係ないかもしれませんけど。でも面白い。

◎──鎖国

幕府が、というかこの日本が大きく舵取りを迫られた最大のポイントが、外国とどう付き合うかという話。江戸時代の大半、外国との付き合いを大きく制限してきました。いわゆる鎖国と呼ばれる状態です。

もっとも、元々そんなに外国と交流があったわけではありません。古代からの中国、朝鮮との付き合いのほかは、東南アジアと少し。それに加えて鉄砲伝来とキリスト教伝来あたりから、ポルトガル、スペイン、オランダとの付き合いが。

そのキリスト教が問題で、ヨーロッパに対する警戒が生まれたのが秀吉の頃。江戸時代に入り、秀忠の頃から少しずつ明確に締め付けを強化していきます。禁教令に始まり、玄関口を長崎の平戸に限定したり、スペインと断交したり、渡航や帰国を禁止したり、ポルトガルとも断交したりと、徳川幕府四代将軍の家綱の頃以降、ヨーロッパとの付き合いは基本的にはオランダのみになります。

それが1792年、前回紹介したラクスマン来航を皮切りに、諸外国が徐々に日本に外交を迫ってきます。

まずそのラクスマンですが、定信が突っぱねたと書きましたが、長崎への入港許可証は渡していました。結局ラクスマンはそのまま帰ったのですが、1804年にレザノフがその許可証を持って訪日。でも幕府は、これも突っぱねます。

1806年(文化3年)、「文化の薪水給与令」を出し、水と燃料は補給させてあげるからおとなしくお帰りくださいと少し譲歩。しかし、交渉を諦めたレザノフは報復とばかりに攻撃してきました。この薪水給与令はすぐに撤回、国防の重要性が叫ばれることになります。

同時期にアメリカ船も日本に来ています。1797年、フランス革命とナポレオン戦争のために本国がフランスに押さえられてしまったオランダ商館の依頼で、オランダ国旗を掲げてアメリカ船が出島で貿易を代行しています。

そのことを知ってか知らずか、1808年、オランダと敵対していたイギリスがオランダ国旗を掲げて出島に来港、オランダ商館員を拉致して物資を強奪する事件が勃発。これがフェートン号事件です。

その後もイギリス船はちょいちょい出没したり、他にも諸々外国と摩擦があって幕府は、1825年に異国船打払令を発令します。

1837年、漂流民を送り届けてくれたモリソン号を打ち払って批判が高まった上、アヘン戦争で清が酷い目に遭ったと聞いてびびった幕府は、1842年(天保13年)、ちょっと折れて、遭難した船に限り給与を認める「天保の薪水給与令」を発令。この右往左往な感じ、幕末って雰囲気になってきてますよね。

◎──そしてアメリカ

鎖国体制と言われるものを決定的にぶち壊したのは、ご存じアメリカです。アメリカから最初に訪れたのはペリーではありません。まあモリソン号もアメリカ商船ですが、その他にもちょいちょいやってきています。

1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが開国交渉に来日。突っぱねられてすぐ帰ってますけども。

1848年にはラナルド・マクドナルドが漂流の振りをして日本にきます。別に悪いことをしに来たわけでなく、母国で日本人漂流民と交流のあったことがきっかけで、日本に興味津々だったんです。なんだかんだで思惑が一致し、幕府はマクドナルドから英語を学ぶことに。

ビドル来日と同年の1846年、蝦夷地沖で難破したアメリカ捕鯨船の船員18人が、捉えられ、長崎で牢に入れられました。そのことを知ったアメリカは、1849年、ジェームス・グリンを長崎に派遣、強硬的な姿勢も見せつつ解放を交渉します。マクドナルドもこの時に一緒にアメリカへ帰っています。

グリンは帰国後、日本と外交交渉する時には強さを見せる必要があると建議。それがペリーの姿勢に反映されることになります。

1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し開国を要求。翌1854年、再来航し、日米和親条約を締結。1858年、タウンゼント・ハリスが来航し日米修好通商条約を締結。これで通商面での鎖国は完全に終わりを迎えました。

ここからだいぶ時間はかかりますが、海外渡航の禁止や禁教も次第に解かれていきます。日本人にキリスト教が解禁されたのは、1873年(明治6年)です。

◎──次回はざっくり流れを追う予定

思いの外ちょっと鎖国の話が長くなりましたが、鎖国政策の崩壊が幕府の崩壊に繋がっていきます。次回は順を追って、崩れていく幕府の流れを紹介したいと思います。次々回くらいからはもう少し面白いと思いますので、ひとつ我慢を……

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