ざっくり日本の歴史(その21)

本記事は2016年2月15日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

『真田丸』は世間の評価も上々で、楽しく見ていた身としてはホッとしました。人気出たら混むだろうなーと、前年のうちに九度山の真田庵や大阪の真田ゆかりの地をひと巡りしたんですが、序盤の舞台である信州方面にも行ってみたくなりました。

苦境のなか必死に立ち回る昌幸、その背中を見て育つ信幸と信繁、いいですね。草刈正雄がかっこいい! 真田の家名を残そうと奮闘する父の姿は、家名や血統以外にも多くのものを次代に伝えてるんだなーと。

家名や血統を残すと言えば、十五代続いた徳川将軍家にも色々とありまして。今回は、八代将軍吉宗に至るまでの経緯をざっくり紹介したいと思います。

これまでにも触れていますけど、おさらいということで。

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◎──初代家康から二代秀忠へ

一応、初代からいきますね。ここは、まあある程度、既定路線でした。秀忠は三男ですが、長男の信康は織田信長の命で切腹(諸説あり)、次男の秀康は結城家を継いでいました。

その秀康を呼び戻すこともできたと思いますが、家康の側にずっといた秀忠が跡取りというのは、まあ自然な流れかと。激動の中、側でその姿を見ていたわけですし。

関ヶ原の時点で、主力を秀忠に任せるなど、家康の中でも家中でも、明らかに跡目は秀忠ってことになっていたと思われます。その関ヶ原、秀忠はその主力を率いて、遅参するんですけどね。(笑)

徳川の正史と言われる『徳川実記』には、関ヶ原の後、有力家臣に後継者を誰にするか相談したという話があります。子だくさんでしたし。

徳川家康:「誰に継がせたらええと思う?」
本多正信:「順番通りで秀康でしょ」
井伊直政:「娘婿の松平忠吉に一票」
大久保忠隣:「戦時は武勇が一番ですが、これからの平時には文徳を持った秀忠がええと思いますよ」

で、後日、

徳川家康:忠隣の考えが自分の考えと一緒やわ。秀忠でいこ。

と、決まったとのこと。こういうやり取りが実際にあったというより、秀忠を二代目に据えた理由をこういう形で説明した、って感じですけどね。

家康は血統が絶えないように保険として、九男、十男、十一男を、尾張、紀伊、水戸に御三家として立てています。なお四男〜八男は、他家に行ったり、若くして亡くなっています。

◎──二代秀忠から三代家光へ

これは結構有名なエピソード。秀忠の長男は早逝、次男の家光と三男の忠長が後継者の候補に。

両親の秀忠と江は、病弱なところがあった家光よりも、見た目も中身もしっかりした忠長をかわいがっていたそうですが、家光の乳母であった春日局が家康に直訴。家康も、家は原則的に長子が継ぐものだと、直々に家光をプッシュ。結果、家光に決まったそうです。

家光には、江の実子ではないのではないかとの説もありますが、それはそれとしても、江は江できちんと家光を自分の子として育てたわけですし、忠長推しだったという話もどこまで本当かは分かりません。兄弟仲も悪くなかったようですし。

秀忠も、忠長推しと言われるものの、忠長が家光の居所で鴨を撃ったことに激怒したというエピソードもありますので、何がどこまで本当かは謎。忠長は、江が亡くなった後、乱心したとして自刃させられています。

なお秀忠には隠し子(?)として保科正之がいます。正之の存在を知った家光は、召し出して重用しました。忠長にもかわいがられたそうです。

◎──三代家光から四代家綱へ

ここはスムーズ。家光には、長男の家綱、次男の綱重、三男の亀松、四男の綱吉、五男の鶴松と五人の男子がいましたが、亀松、鶴松は夭逝。実質は家綱、綱重、綱吉の三択。

なお、みな遅くにできた子でした。正妻と不仲で、見かねた春日局が家光好みの側室を探してきて仕えさせたとの話。すごいな春日局。

三択というか、まあ三人の男子がいましたけど、迷うこともなく長男の家綱が跡を継ぐことになります。ただ強いて言えば、ここの代替わりは、これまでに比べてバタバタでした。

家光の健康状態が一進一退し、最期は一気に悪化してのことだったので。

でも、跡取りが家綱というのは早々に、というか生まれた時からそのつもりだったようで、何事もなく家綱に。亡くなる直前は、枕頭に保科正之を呼び出して、家綱のことを託したそうです。

バタバタと言えば、むしろ家光の死後。由井正雪が反乱を企てました。それもまあ事前に発覚して、事なきを得ています。

病身だったのだから、生きてるうちに家綱を将軍にしておけばよかったのに、という話もありますが、家綱もまだ十歳そこそこだったので、仕方ないかと。

◎──四代家綱から五代綱吉へ

11歳で将軍になった家綱ですが、保科正之をはじめとした優秀な家臣団の支えもあり、安定した政権運営を行います。人物も温厚で、民や家臣を慈しむ逸話がいくつか残されています。ただ、なかなか世継ぎができない。そうこうしているうちに、病に倒れてしまいます。

家綱には前述の通り、綱重、綱吉という二人の弟がいましたが、綱重は家綱に先だって亡くなっていました。綱重には息子、綱豊がいましたが、まだ十代ということもあってか、綱吉が家綱の跡を継ぐことになりました。

老中堀田正俊が、家光との血の近さからいってまずは綱吉でしょうと猛プッシュしたとも。ただ綱吉に跡を継がせはするものの、順序から行けばその兄の子である綱豊が優先されるべきという考えは周りにあったようで、あくまで中継ぎ扱いでした。

しかし、当然というか、綱吉は自分の子に跡を継がせたかったようで。それで一悶着あります。

というかこの綱吉の、自分の血を残したいという気持ちは、間接的にこの先の徳川の歴史を大きく変えることになります。

◎──五代綱吉から六代家宣へ

結論から言ってしまえば、この家宣とは綱豊のことです。綱吉の兄の子です。綱吉の嫡男は綱吉よりも先に亡くなってしまいました。その結果、予定通り、順当に綱豊が六代目になりましたと言いたいところですが、そうでもなくて。

自分の血を残したい綱吉は、諦めきれずに、跡取りは娘婿である紀州徳川家の徳川綱教はどうだろうと言い出します。そうすれば、娘がその跡取りを産めば、との思いがあったようで。しかし、娘は跡取りを産むことなく亡くなってしまいます。

それでも少しでも自分に近い、大事な娘の婿であった綱教をと推そうとするのですが、徳川光圀や柳沢吉保に、どう考えても綱豊だろうと反対され、ようやく諦めました。綱豊はその間、気が気でなかったことでしょう。

この綱豊、そもそも綱重の跡取りになるにも紆余曲折がありました。長男なのですが、綱重が正妻を娶る前に女中に産ませた子であったために、他所の家に預けられてしまいます。

結局、男子に恵まれなかった綱重に呼び戻されるのですが、その際、家臣の勢力争いに巻き込まれて「そいつ綱重の子とちゃうで。そういえば最近、ちょっと綱重もおかしいみたいやで」と、アンチ綱豊の家臣が、幕府に訴え出ます。

その嘘はばれまして綱豊が跡取りになったのですが、なかなかの綱渡り人生です。将軍になるまでずっと綱渡りの連続。だから名前から綱の字を外して、家宣にしたんでしょうかね。(それはない)

綱豊改め、家宣は、綱吉の存命中はおとなしく従っていました。

綱吉:「生類憐れみの令はわしの死後もずっと残すんやで」
家宣:「わかったで、おじさん。いや、お父さん!」
綱吉:「よし、ほな逝くわ……(ぱたり)」
家宣:「お父さーん……逝った? 逝った? そうか、ごめんな、生類憐れみの令はすぐにでも廃止させてもらうわ」

と、もう、亡くなるやいなや、廃止に動きました。

生類憐れみの令は即廃止に動いたものの、綱吉を全否定していたわけではなく、基本的には綱吉の政治を踏襲しました。ただ、側用人に間部詮房を、顧問役に新井白石を登用し、綱吉時代後半の柳沢吉保、荻原重秀の政治は修正にかかりました。新井白石が荻原重秀を大嫌いだったようで。

新井白石は、儒学者らしいというか金や商売を毛嫌いしていたふしがあり、貨幣の質を落として強引に財政再建を図った荻原重秀のことがどうにも気に入らなかったようです。なんとしても追放したいと、三度も家宣に進言しています。三度も進言しているということは、家宣は二度は突っぱねています。

白石:「荻原重秀を追放してください」
家宣:「あかん。強引やけど、あれだけの手腕をもったやつ、他におらへん」

白石:「荻原重秀を……」
家宣:「あかんてゆーてるやろ」

白石:「荻原重秀を……追放せんかったら、俺、あいつ刺しちゃうかも」
家宣:「わ、わかったから、落ち着け、な。うん、追放するから」

無茶苦茶です。

家宣:「追放したで。で、どないすんねん?」
白石:「貨幣を元に戻します」
家宣:「だから、どうやって?」
白石:「どうやって、って……これから考えます。みんなにも聞いてみます」
家宣:「そ、そうか、頼んだで……」

無茶苦茶です。

こんな顧問に心労がたたったのか、家宣は在位わずか四年弱で病没します。

◎──六代家宣から七代家継へ

家継は家宣の四男でしたが、兄らはみな早逝。跡継ぎとして順番が回ってきたのですが、家宣が病に倒れた時、まだ三歳で。家宣は病床で白石に相談します。

家宣:家継に継がせるより、尾張徳川家の徳川吉通に継がせるんはどうやろ?
白石:幼いけど後継者いてるのに、そんなことしたら後できっと揉めますよ。
家宣:そうかー、そうやなー。
白石:重臣も自分もサポートしますから。
家宣:たのむわー。

徳川吉通も、御三家の我々が一丸となってサポートしますと宣言して、家宣は安心してこの世を去ります。その吉通、翌年に急逝しちゃうんですけども。

四歳で将軍にして、世継ぎできる前になにかあったらどうするのかと、反対意見も一部であったようですが、ともあれ七代目は家継に決まりました。が、その心配は的中し、家継は八歳で亡くなります。

◎──七代家継から八代吉宗へ

ここ、なかなかに複雑です。よく知られていますが、吉宗は紀州徳川家の出身です。しかも四男坊でした。吉宗が八代将軍になるまでには、さまざまな経緯が複雑に絡み合ってきます。

……で、長くなるので、次回へ。暴れん坊将軍の登場に、乞うご期待!

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