ざっくり日本の歴史(その15)

本記事は2015年09月07日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

さて、前回はだいたい三代将軍家光、四代将軍家綱の時代に起きた事件を書いてきましたが、今回は同時代から五代将軍綱吉の時代くらいの有名人を、二人ほどご紹介しようと思います。

名前はこれまで何度か出ていますが、保科正之と徳川光圀です。詳しく紹介しているとキリがないくらいの二人ですので、軽く。

どちらも幕末にまでその影響を及ぼすほどの偉人ですが、学校の教科書では、ほんの数行触れられていた程度だったように思います。保科正之と聞いても、「名前には聞き覚えがあるけど、誰だっけ」という方が多いのではないかと。

一方で、徳川光圀、いや「先の副将軍、水戸光圀公」は、少なくとも、昭和生まれなら知らない人がいないと言い切っても差し支えないほど有名ですよね。

「みとこうもん」と聞いて、ああ2015年に水戸市にオープンした肛門科の病院のことですよね、なんて人は茨城県くらいにしかいないでしょう。

明るいナショナル万歳。ドラマ『水戸黄門』のことは誰もが知っているとして書いていきますので、万一知らない方はお父さんお母さんおじいさんおばあさんに聞いてください。

『最強ロボ ダイオージャ』なら知ってるんだけど、というマニアックな人は、まあいないと思いますが……ならば、その目で、然と見よ!(ミト王子)

・みと肛門クリニック
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◎──保科正之(1611年〜1673年)

保科正之は二代将軍徳川秀忠の四男として生まれました。秀忠は元服したての頃、織田信雄の娘で秀吉の養女であった小姫を正室として迎えますが、秀吉と信雄が決裂したことで離縁、また小姫はほどなく亡くなります。

その数年後に、いわゆる江姫と再婚します。この江姫も秀吉の養女ですが、江姫は織田信長の妹であるお市の方と、浅井長政の三女です。浅井三姉妹の末っ子です。

秀忠は恐妻家だったとの説がありますが、江姫以外の女性と二度、子を作っています。一人目は名前も伝わっていない女性との間に長男を、二人目は静という女性と四男を。この四男が保科正之です。なお長男は夭逝しました。江姫との間には、次男の徳川家光、三男の徳川忠長がいます。

秀忠が恐妻家だったからなのかどうかは分かりませんが、正之はこっそり産み育てられ、6歳くらいで保科家へ養子に出されます。その時、保科家は既に養子がいたのですが、正之が保科家の跡取りとなりました。

なんだか日陰者って感じですが、兄の家光、忠長とは後に対面していまして、どちらからもとても気に入られています。特に家光からは、秀忠の死後、大変重用されて、会津藩23万石の大名となります。さらに死の間際に家光は正之を枕元に呼び、徳川宗家をよろしく頼むと言い遺され、家綱の補佐を頼まれます。

正之は家光の遺言を重く受け止め、会津藩に『会津家訓十五箇条』を定めます。その第一条は、「将軍に対し、他藩の動向に関わらず一心に忠勤に励め。もし将軍に二心を抱く藩主がいればもはや自分の子孫ではない。決して従うな」といった内容になっています。

なお第二条は「武備を怠るな、武士の本文を心がけよ」といったものです。会津藩では代々この家訓が重んじられます。そして、幕末、この会津藩が佐幕派の中心となるのです。

幕末に、京都の反幕府勢力を取り締まり、最後の最後まで幕府軍として戊辰戦争にも従ったあの新撰組も、当時の京都守護職の会津藩主、松平容保の庇護のもと発足した組織です。

この『会津家訓十五箇条』の制定には、正之が重用していた山崎闇斎も草案に関わったといわれています。正之は熱心な儒学の徒であり、また第五十五代の卜部神道伝統者でしたが、山崎闇斎の影響もあって神儒一致を唱えています。

朱子学を重んじた正之は、朱子学を批判した山鹿素行を赤穂へ配流しています。また、藩内の90歳以上の老人には、身分を問わず、一律の玄米を生涯支給する、いわば年金制度を設けています。(儒学では年長者を敬います)

◎──徳川光圀(1628年〜1701年)

徳川光圀は、水戸徳川家当主徳川頼房の三男です。長兄は後に高松藩初代藩主となる松平頼重です。(次兄は夭逝しています)

水戸藩主を継いだのが三男の光圀であるのは、色々と複雑な事情がありまして。

まず、頼重も光圀も、正室の子ではありません。父の頼房は、最終的には結局正室を取らないまま生涯を過ごすのですが、頼重が生まれた当初は、後に正室を取って、正室の子を嫡男にする心づもりがあったそうで。そのこともあって、頼重を跡取りとして扱わなかったそうです。

また頼重は幼少の頃病弱であったことも跡取りとしなかった理由と言われています。さらに、頼重が生まれた時、頼房の兄である紀州藩徳川頼宣にまだ子がいなかったことをはばかったとの話もあります。

そんなこんなひっくるめて、頼房は「頼重は跡取りにしません」と宣言していました。結果、光圀が跡取りの座にするっと収まるわけですが、よく分からない大人たちの都合で、兄を差し置いて跡取りになってしまった若き光圀は大いに悩んだようです。結果、グレて不良になりました。(笑)

悪い仲間と遊び回り、そいつらに煽られてホームレスを試し斬りしたりして。もっとも、今の感覚とは違って、武士が試し斬りと称して浮浪者を斬ることはよくあり、現代の不良が浮浪者を殺した、というのとは社会的にはかけ離れた話ですが、それでもまあ褒められたことではありません。

そんな光圀に転機が訪れます。おそらく光圀の悩みや素行不良を慮った家臣の勧めで、『史記』伯夷伝に出会います。中国古代、殷の末期、孤竹国の王子であった伯夷と叔斉の話です。

伯夷と叔斉の父王は死に際して、三男の叔斉に跡を継がせると長男の伯夷に伝えました。伯夷は遺言に従って叔斉に王位を継がせようとするのですが、叔斉は長兄を差し置いて王位に就くなんてことはできないと固辞。伯夷は事を収めるために、国を出るのですが、叔斉は兄の後を追って国を離れます。(結果、残された次男が継がされました)

国を出たこの兄弟は、周の文王の評判を聞いて、周に向かいます。しかし文王は少し前に亡くなっていて、息子の武王が太公望呂尚を伴って殷の紂王を討ちに行くところでした。

それを聞いた伯夷と叔斉は、「父が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えるか。主の紂王を討つのが仁と言えるか」と諫言して、そんな周の国の穀物を食べることは恥だと周を離れ、山に籠もり、最終的には餓死してしまいます。

この二人の行いは後に儒教の聖人として扱われました。光圀はこの話を読んで感銘を受け、素行を改めて勉学に励みます。伯夷と叔斉の兄弟に自らを重ねて、兄を差し置いて跡取りとなった始末をどうつけるべきか考えたのかもしれません。

国を飛び出すわけにはいかない、というか、意味がない。この問題に対して、光圀は「血統を正す」ことで決着をつけます。兄、頼重の子を養子として求め、その代わりに自らの子を兄に養子として差し出したのです。光圀マジック!

さらに光圀は、『史記』にならってか『大日本史』の編纂作業に着手します。この『大日本史』の編纂のために、資料を求めて家臣を全国に派遣したことが、いわゆる『水戸黄門漫遊記』の元ネタになったと考えられています。なお光圀自身は、関東を出たことがありません。

光圀は父頼房が死去して跡を継ぐ際、家臣の殉死を禁じます。頼房自身が殉死を禁じたという話もありますが、光圀は「忠義を大事にして殉死するっていうけどさ、それって跡を継ぐ自分への忠義はどうなのよ?」と説いたそうです。

また光圀は明の遺臣である朱舜水を招き、さらに深く儒学を学びます。朱舜水からはラーメンの作り方も学んだそうで。日本で最初にラーメンを食べた人、としても知られています。

儒学では、忠義を重んじます。問題はその忠義の対象で、幕府が朱子学を奨励したのはおそらく、将軍への忠義を重んじさせるためと思われます。しかし、光圀は、最も忠義の対象とすべきは天皇であるという姿勢をとります。

その現れとして光圀は、後醍醐天皇に付き従った楠木正成を忠臣として称え、湊川に「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記した墓を建てさせています。湊川まで建てに行ったのは、「助さん」のモデルとされる佐々宗淳です。

前に紹介しましたが楠木正成は、後醍醐天皇の呼びかけに応じて鎌倉幕府倒幕に荷担し、また室町幕府を興した足利尊氏と戦い散った人です。武家政権からしてみれば、ちょっと距離を置きたい人ですよね。

しかし光圀は、後醍醐天皇に最後まで付き従った楠木正成を称えた。武士にとって忠義を尽くすべき主君は、藩主や将軍以上に、天皇であることを示したのです。

こうした光圀の姿勢は「水戸学」として、『大日本史』編纂と共に脈々と受け継がれていき、徳川御三家でありながら、幕末の勤皇派の中心となります。

幕末、幕府が天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤慨して、桜田門外にて大老井伊直弼を暗殺したのは、水戸藩の脱藩浪士が中心でした。

『逆説の日本史』シリーズの著者である井沢元彦氏は、そもそも水戸藩は家康から勤皇であれと密かに命じられていたのではないかとの説を唱えています。

幕府と天皇が将来的に揉めても、天皇側につく徳川家があれば、どう転んでも徳川の血が絶えることはないからです。その説の真偽は定かではありませんが、水戸藩は確かに勤皇でありつづけました。

もっとも水戸学は勤皇云々だけではなく、幅広い学問、学派を扱っていました。しかし水戸学の中心はあくまで『大日本史編纂』で、その骨子は光圀が示した勤皇の姿勢だったのです。

◎──今日はこの辺で。

保科正之、水戸光圀、そして池田光政が江戸初期の三名君と称えられていますが、幕末への影響が面白い二人を今回は取り上げました。次回のことは、また次回。

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