本記事は2015年12月21日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
前回、ざっと有名どころの名前を列挙して、安井算哲と関孝和だけを紹介した元禄文化ですが、今回はさらに数名、紹介したいと思います。
◎──尾形光琳(万治元年/1658─享保元年/1716)
『燕子花図』、『紅白梅図』といった屏風絵で有名な尾形光琳。歴史や美術の教科書できっと目にしていると思います。作品はググればいくらでも出てくるのでそれを見ていただくとして、この人、めちゃくちゃな人です。
呉服商の次男として生まれた尾形光琳は、マンガにでも出てきそうな遊び人のボンボンで、親の遺産を湯水のように使って遊びまくって、食いつぶします。で、三男で陶工として有名になる弟、尾形乾山から借金する始末。この弟は、対照的にしっかりもので。尾形光琳の人生を大きく変えるきっかけになります。
光琳「おう乾山、遊びに行くから金貸してーな」
乾山「またかい、にーちゃん。仕事せーよ、もう30やろ」
光琳「仕事てお前、何するねんな」
乾山「どうせ堅気の仕事は無理やし、絵師にでもなったらどうや」
光琳「絵師て、絵なんか子どもの頃にちょっと習っただけやで」
乾山「そやけど、どうせなんもでけへんやん」
光琳「そやな、絵でも描いてみるわ」
……ってな経緯で、絵を描くことにした光琳。トレースや模写で練習を積んで、サインの練習もバッチリして、扇子に絵を描いたりしたらヒットして。
光琳「あ、俺、センスあるかも。扇子だけにな。絵なんて余裕やな」
乾山「にーちゃん、調子のってたらあかんで。すごい絵あるから見ておいで」
光琳「すごい絵ってなんや」
乾山「俵屋宗達っていう人の絵でな、風神雷神の絵やねん」
光琳「へー」
乾山「近世の大画家として名を残す人で、『風神雷神図』は未来の国宝やで」
光琳「すごいねんな、見てくるわ。……未来を知ってるお前もすごいけどな」
そして見てきた光琳。
光琳「うわー……うわー……わしなんかまだまだや……」
乾山「な、すごいやろ」
光琳「あかんわ、ちょっとセンス磨き直しに江戸にでも行ってくるわ」
乾山「江戸な……江戸の遊郭も有名やな……」
光琳「うん、まずはそこや」
乾山「にーちゃん……」
でも、絵に目覚めた光琳はひと味違う。遊郭でも芸子さんの絵を描いたりして。そして五年経って京都に戻ってきた光琳は、創作に没頭できるアトリエを新築。
光琳「どやあ!」
乾山「さすがにーちゃん、金遣いの天才やな……」
光琳「そうかそうか、ほなここで、宗達の風神雷神に挑戦や!」
風神雷神の模写に、独自のエッセンスを加えて完成させた光琳。
光琳「あかん……ぜんぜんあかん……もうあかん……」
乾山「……にーちゃん、何してんの?」
光琳「遺言書いてる」
乾山「相変わらず極端やな!」
光琳「そやかて、パトロンの内蔵助も亡くなってもうたし!」
乾山「大丈夫やって、にーちゃんならできる、やればできる子や!」
光琳「……そうかな……もうちょっと頑張ってみよかな……」
頑張った光琳は、後の国宝となる『紅白梅図』を描きましたとさ。
……脚色してますけど、めちゃくちゃな人でしょ?
放蕩三昧を正当化するわけではありませんが、いいものを見て目が肥えていたんでしょうね。そしてセンスが身についていた。さらにパトロンになりそうな有力者とのコネクションもできていた。あと、しっかり者の弟がいた。(笑)
元でもなんでも、金持ちは人生なんとでもなる、というお話でした。光琳の話が長くなってしまいましたが、あと二人、簡単に紹介。
◎──井原西鶴(寛永19年/1642─元禄6年/1693)
大坂は難波生まれの井原西鶴は、俳諧師として名を上げるところからスタート。一昼夜でどれだけの句を詠めるかという「矢数俳諧」を謳い、その記録なんと2万3千500句という超人です。
24時間として、1時間に980句。1分で16句。3秒弱に1句の計算です。超早口で言葉を発し続けないと無理。それも24時間。まあ、句の数は本当として、時間のほうはもう少し長かったんでしょうかね。
後に西鶴は、浮世草子として知られる『好色一代男』で作家に転身。ヒットし、重版がかかって、その江戸版では、挿絵に菱川師宣を起用。『見返り美人』で有名な菱川師宣は、浮世絵の創始者と言える大画家です。
さらに後には浄瑠璃作家として、宇治加賀掾の依頼でそのライバル竹本義太夫が立てた近松門左衛門と競ったりも。
西鶴の墓は大阪市中央区上本町西4丁目の誓願寺にあります。また、大阪メトロ・谷町九丁目駅からすぐの生國魂神社には西鶴の銅像が。(写真は生國魂神社)
この生國魂神社には、境内社として、近松門左衛門ら文楽関係者を祀り、広く芸能上達の神として信仰される浄瑠璃神社があります。
◎──近松門左衛門(承応2年/1653─享保9年/1725年1月6日)
文楽(人形浄瑠璃)・歌舞伎の原作者として有名な近松門左衛門は、越前国の生まれと言われています(諸説あり)が、後に京都、大坂へ移り住みます。
代表作は、近世浄瑠璃の始まりと言われる『出世景清』、人情を描く世話物の『曽根崎心中』、時代物の『国性爺合戦』などで、『出世景清』は、それまで宇治加賀掾に作品を提供していた近松門左衛門が、初めて竹本義太夫のために書いた作品です。
『曾根崎心中』お初の墓所がある九成寺も大阪メトロ・谷町九丁目駅近くにあります。
私は大阪で生まれ育ったので、文楽も学校行事で見に行ったことはあるんですが、まあ、その、若かったこともあってか、とんでもなく眠くて……苦手意識だけが残りました。(笑)
国立文楽劇場のすぐ側に住んでたこともあるし、今も徒歩圏内なんですけど。
なお近松門左衛門の墓も徒歩圏内にあります。大阪メトロ・谷町六丁目駅から少し南に下った谷町7の交差点あたりです。さっきからそんなことばかり書いていますが、近いとやっぱ多かれ少なかれ興味持ちますね。
近松門左衛門の場合は、『女殺油地獄』や、近松門左衛門に私淑した近松半二『新版歌祭文』の中の『野崎村』の舞台である「野崎」が、私の出身地の近くで、名前だけずっと子どもの頃から知っていました。近松半二のことも近松門左衛門と同一人物と思っていましたけど。(笑)
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