本記事は2015年06月15日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
今回の大坂の陣、大阪人の私はもちろん大坂方びいきで書きますけど、徳川方がこの後、200年以上も続く泰平の世を作ったことを思えば、それを評価して徳川を支持する立場も十分に理解できます。
なんにせよ、あれやこれやの歴史の結果が今である以上、過去にあった出来事のどれかひとつでも否定してしまえば、今自分がここに存在することの否定にも繋がりかねません。
良いことも悪いことも難しく悩ましいこともあっての今ですので、歴史は否定しても、たらればを言っても意味はなく、学んで未来に活かしてこそです。
とは言っても、個人的な趣味の範囲では別。過去の出来事に文句をつけるのも、たらればを語るのも楽しいもの。ああ! 幸村が家康に勝っていたら!(笑)
◎──大坂城(大阪城)
さて今回これを書くにあたって、というわけでもないのですが、夜中、大阪城にある豊国神社にお参りをしてきました。大阪城公園も豊国神社も夜中でも入ることができるんです。大阪城も23時まではライトアップされています。(執筆当時)
豊国神社はその名の通り豊臣秀吉(豊国大明神)を祀ったもので、各地にあり、京都の「とよくに神社」は秀吉のみ、大阪の「ほうこく神社」は秀吉のほか、弟の秀長、嫡男の秀頼も合わせて祀られています。境内には秀吉像も。
豊臣、豊臣って言ってるけど、秀吉が建てた大坂城(天守)は大坂の陣で破壊されて残ってないんでしょ。その後に幕府が建てたんでしょ。って言われそうですが、実は今ある大阪城は、秀吉が建てたものでも、幕府が建てたものでもありません。
Q.大阪城を建てたのは誰でしょう?
A.大工さん。
というのは、大阪の子どもなら一度は聞いたことのありそうななぞなぞですが、実は、今ある大阪城を建てたのは、秀吉でも、幕府でもなく、大阪市民です。
1665年に落雷によって焼失して以来、大坂城には天守がありませんでした。それを昭和3年に市民の募金を集めて、昭和6年に完成したのが今の天守です。昭和天皇の即位を記念して進められた事業の一環として、天守復興とともに、大阪城公園が整備されました。
先ほどから天守と書いていますが、世間一般で「お城」として認識されている建物は、天守と呼ばれる部分です。広い意味で「お城」は他の建物や敷地まで含んだものになります。
大阪城公園に行くと天守の周りをお堀が囲んでいます。その外側、大阪城公園の外周くらいにもお堀があります。
大坂の陣の話で、内堀、外堀という言葉を聞いたことがある人は、それぞれこれがそうか、と思われるかもしれませんが、大坂城=大阪城公園との思い込みからくる勘違いです。大坂城の規模はそんな小さなものではありませんでした。
この説明、大阪の人でないと分かりにくいと思いますが、大坂城の外堀、つまり大坂城の外周は、今の大阪城公園を北東の起点として、西は松屋町筋あたり、南は長堀通りよりやや南までありました。その外堀の南東付近に「真田丸」は築かれました。
秀吉は、天守を含む本丸の周りに、二の丸、惣構、三の丸と整備を進め、他に類を見ないほど巨大で難攻不落の城を建てました。前置きが長くなりましたが、これから書く大坂の陣は、その難攻不落の大坂城を徳川が攻め落とす話です。
大坂の陣も、細かく書くとキリがないので、大雑把にいきますね。また諸説が入り乱れていたりしますが、面白そうなのを適当に拾います。
◎──大坂冬の陣
前回、大坂の陣に突入する直前までの話は書きました。豊臣秀頼は諸国の浪人に声をかけて味方を募りました。真田幸村もそれに呼応した一人です。また、元は黒田家に使えていた後藤基次(後藤又兵衛)もいました。
なかなかの有名どころが集まりますが、豊臣家の宿老たちと、外部浪人組との間では、意見が上手くまとまらないことも。
特に豊臣の人間は大坂城の堅固さに絶対的な自信があるため、籠城して守り切ることで戦を乗り切ろうと考えます。一方で幸村など浪人組は、まずは打って出て近江あたりで徳川方の足を止め、時間を稼ぎつつ、さらに応援を募ることを主張します。
時間を稼げば、徳川を快く思わない諸大名、例えば関ヶ原で西軍についたものなどがなびいてくる可能性も考えられますし、なにより相手の家康はもう60歳をすぎた老人です。ましてや遠征軍、体力的にも長期戦はきついでしょうし。まずは打って出て、徐々に引いて、最後は籠もればいいという考えです。
でも結局は宿老たちによる、最初から籠城案が通ります。
幸村は大坂城を調べて、堅牢ながらも南東側が攻めやすいと感じます。そこで、南東の外堀から張り出すようにして、出城を築くことを献策します。これが、後に「真田丸」と呼ばれるものです。半円とも楕円とも言われますが、大坂城の外堀を背にして、周りに深い堀を設けた曲輪で、東西200メートル弱。
今のJR玉造駅から歩いて5分くらいのところにある三光神社のあたりと言われ、神社境内には大阪城内と通じていたと言われる「真田の抜け穴」があり、幸村の像が建っています。が、実際には、もう少し西側にある大阪明星学園あたりだったようです。
真田の抜け穴も伝説としてよく語られますが、真田丸はぐるりと堀があったとされ、さらに北側は大坂城の外堀に接しているわけですから、それを抜け穴で抜けるとなると、とんでもない深さで堀の下をくぐらなければいけませんね。絶対になかったとは言いませんけども、まあ無理でしょう。
真田丸を築くにあたり、宿老の大野治長らは、幸村が徳川方を手引きするため偽ってそんなものを作ろうとしているのではと疑念を持ち、相談した後藤基次に「そんなわけねーだろ」と一笑されたなんて話もあります。まあ幸村の兄は家康に仕えているので、ちょっと心配するのも分かりますけど。
そんなこんなで籠城準備も進み、また徳川方の攻め手も迫ってきて、いよいよ大坂冬の陣が幕を開けます。1614年11月(旧暦)のことです。
ちなみに、関ヶ原では東軍として家康の元で活躍した黒田長政や福島正則は、江戸でお留守番。関ヶ原と違い、今回の敵は豊臣家なので、豊臣恩顧の彼らは寝返る不安もあったのでしょう。
ともあれ、巨大な大坂城をぐるり囲んで、各地で戦闘が繰り広げられます。
まずは城外の砦での戦い。
・木津川口の戦い(3倍以上の兵力差で徳川完勝)
・鴫野の戦い(激しい攻防の末、徳川の勝ち)
・今福の戦い(最激戦区となる攻防の末、徳川の勝ち)
・博労淵の戦い(10倍以上の兵力差で徳川完勝)
・野田・福島の戦い(あっけなく徳川完勝)
ここから大坂城に籠もります。
・真田丸の攻防(徳川に大打撃。冬の陣での徳川戦死者の5分の4がここ)
・本町橋の夜襲(豊臣方が少人数で夜襲を成功させ、さくっと帰る)
大阪の人には聞き馴染みのある地名が並んでますね。さすが大坂城、籠もってからは徳川方も決定打を打てず。でも南蛮渡来の大砲をガンガンぶっぱなし、大坂方も被害甚大。結局、和議を結ぶことになりました。冬だし。寒いし。
◎──堀を埋める
和議の内容は、外堀を埋めさせろ、二の丸や三の丸もそちらで壊せ。でも秀頼の安全は約束するし、大坂方の面々を罪に問うこともしない、というもの。
ここで、大坂方はしぶしぶ二の丸、三の丸をちんたら解体していたら、すごい速さで外堀を埋めた徳川方が、そのままの勢いで解体に乗り出してきて、本丸以外は丸裸にされます。豊臣方が「なにすんねん! やりすぎやろ」と言うも、「手伝ったまでです。壊すという約束でしたから、きれいに壊しました」と。
このあたり特に諸説あるようですが、一般的には「外堀だけってゆーてたのに、内堀まで埋めやがった」というお話になっています。
◎──大坂夏の陣
冬の陣でとりあえずの和議となったものの、家康としてはやはり豊臣は完全に取り除いておきたい。少なくとも大坂城に居座っている状況ではいつまた何が起こるか分からないので、どうにかしたい。当然、大坂方も折れる気はない。結局、また戦です。徳川方は京都から奈良を通って大坂に攻め寄ります。
・大和郡山の戦い(大阪方が先手をうって攻め、すぐに引き上げ)
・紀州一揆の扇動と堺焼き討ち(徳川方の紀州勢を抑えようとした。失敗)
・樫井の戦い(上記の失敗の後、紀州の浅野に大坂方の隊が殲滅される)
・道明寺の戦い(後藤基次の悲劇)
・若江の戦い(大坂方の若手が奮戦するもかなわず)
・八尾の戦い(大坂方の長宗我部隊が藤堂隊相手に奮戦するも撤退)
・天王寺・岡山の戦い(最終決戦。幸村討死。豊臣の敗北で終幕)
ちなみに、夏の陣とは言いますが、今の感覚で言えば春から初夏です。最初の大和郡山の戦いが旧暦4月26日、新暦で5月23日。天王寺・岡山の戦いが、旧暦5月7日、新暦で6月3日です。昔は、暦の上では1~3月が春、4~6月が夏でした。
道明寺の戦いは、悲劇として描かれます。奈良から攻めてくる徳川軍に対して、後藤基次は道明寺のあたり、小松山を押さえるべきと主張。一方、真田幸村は、もっと近く、四天王寺あたりで迎え撃つべきだと主張。話し合いは幸村が折れ、基次の路線で行くことに決まります。
まず後藤基次が先発し、追って真田幸村、毛利勝永らが続く予定で。ところが、基次が到着する頃から濃霧が発生します。後発隊が思うように進めない中、徳川方と基次の隊は戦闘に突入。幸村たちの到着を待ちながら奮戦しますが、援軍は来ず。基次は銃で撃たれ、無念の敗死を遂げます。幸村たちがようやく到着したのは、その直後でした。
これには濃霧の影響のほか、幸村隊が出発する直前に大野治長らが幸村を呼び出して、
幸村「なんですか、この忙しい時に! もう出発なんですけど!」
大野「ほんまに道明寺でええの? 四天王寺ゆーてたやん?」
幸村「ちょっっ! いやいや、もう決まってるし! 後藤ら向かってるし!」
大野「あ、そうなん? じゃあ、いってらっしゃい……」
幸村「やべ! 遅れる! 遅れたらあいつら死ぬって!」
というようなことがあったなんて話もありますし、司馬遼太郎の『軍師二人』という短編では、大坂方の敗北を感じ取った幸村が、最初にそれぞれ主張した場所が、それぞれの死に場所となるように、あえて急がなかったというような描き方をしています。
いずれにせよ、幸村は到着せず、基次は討ち死にします。ちなみに相手はあの伊達政宗たちでした。
遅れて到着した幸村は徳川方に大打撃を与えたのち、藤井寺の毛利勝永と合流。殿(しんがり)を引き受けて撤退しつつ、追ってこない徳川方に、「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」(意訳:そんだけの大軍のくせに、追ってくる勇敢な男はおらんのかい)と叫んだといいます。
幸村は翌日、天王寺・岡山の戦いで奮戦。徳川方の諸隊を蹴散らし本陣に三度突入、家康が死を覚悟するところまで攻め立てますが、数の差にはかなわず、最終的には力尽き果てました。四天王寺近くの安居神社で休んでいたところを発見されて、「手柄にされよ」と首を差し出したとの逸話が残っています。
残る大坂城は守る堀もなく丸裸。その夜には陥落します。秀忠と江の長女で、秀頼に嫁いでいた千姫は徳川方に救出され、千姫は秀頼の助命を嘆願しますが、もちろん通らず、秀頼も淀殿も自害して果てました。
幸村はたびたび、士気高揚のために秀頼の出陣を要請していましたが、ついに秀頼は戦場に出ることがありませんでした。これまた淀殿に止められたのかもしれませんが、もう秀頼も満21歳。本人も出たくなかったのでしょう。
秀頼は実は秀吉の子ではなく、大野治長と淀殿の不義の子だなんて噂もありますが、ずっと大野治長と淀殿に匿われて、最期も三人で自害という結末でしたので、まあそんな話が出るのも無理ないか。
女好きの秀吉になかなか子どもができず、秀吉は子どもを作れない体なのではないかとの推測も噂の元になっていますが、秀吉には長浜城主時代に側室との間に一男一女がいたという説もあったりして、定かではありません。
なお千姫は処刑されそうになっていた秀頼と側室の娘を、出家を条件に養女にすることでなんとか救いました。その娘には年子の兄もいましたが、そちらは処刑されています。
応仁の乱あたりから続いた国内の大規模な戦闘はついに幕を閉じました。幕府は元号を元和と改めて、天下平定の完了を宣言。元和偃武(げんなえんぶ)の完成です。(偃武:武器をふせて収めること)
◎──後始末
最初の大坂城の話に戻りますが、徳川は破壊した豊臣大坂城を埋め立て、その上に天守も含めて再建します。豊臣時代の大坂城遺構は今も地中に眠っており、その石垣を掘り起こして公開しようとする企画が進んでいます。
・大坂城豊臣石垣公開プロジェクト 太閤なにわの夢募金
< https://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/ >
大坂方についていた諸将は追討、あるいは自主的に、処罰となりました。漫画『へうげもの』の主人公で、茶人として名高い古田織部は大坂方に内通した疑いをかけられて自害しています。
また徳川方にいた者でも、遅参だなんだを理由にして処罰されています。内外を整理するちょうどいい機会だったのでしょう。
◎──そして江戸時代
長くなりましたが、そんなこんなで江戸時代に突入します。信長が企画して、秀吉が形にした天下一統。家康が諸々整えて、盤石の体勢へ移行します。血縁でもなく、時に争いもした三人が、三代で成し遂げた偉業です。
今の時代に直接繋がる日本の形は、ここから始まるとも言えます。しかし江戸の幕藩体制において個々の藩は、ある程度独立した小国のようなもの。これが解体され再編されていくのが明治維新です。
次回以降は、次の山場であるその明治維新に向かって、色々すっとばしつつ、話を進めていきます。
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