本記事は2015年08月24日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
さて、今回は江戸時代初期に起こったいくつかの事件をご紹介していきます。
◎──紫衣事件(1627年)
紫衣とは、朝廷が高僧に授ける紫色の法衣や袈裟のことで、高僧にとって紫衣を賜ることは大変な名誉であり、また朝廷にとっては僧からの見返りが収入源でもありました。
武家諸法度や禁中並公家諸法度に代表されるように、武士に対しても、皇族や公家に対しても法整備を進めていた幕府は、朝廷がみだりに紫衣を授けることを法で禁止したのですが、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に相談もなしに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。
当時幕府は秀忠が大御所に退き家光の時代。この朝廷の行動を問題視した幕府は、勅許の取り消しと紫衣剥奪を命じ、それに反発した僧たちを罰しました。幕府が定めた法が天皇の権威に勝るということを示した事件です。
さらに幕府は、床に伏していた家光の名代として、家光の乳母である斎藤福を、家光の平癒祈願で伊勢参りに行ったついでに上洛させて、御所に昇殿させようとしました。官位も持たない福には昇殿する資格がないため、親戚筋の公家と縁組みさせて強引に。
結局、昇殿はかなって後水尾天皇と和子に謁見した福は、位階と「春日局」の名号を賜ります。でも振り回された天皇は不快だった模様。
後水尾天皇の中宮(いわば正妻)は、秀忠の娘の和子。家康が強引に嫁がせたとは言え、二人の仲は良かったそうです。そもそも後水尾天皇も家康の強力なプッシュで即位していて、幕府と朝廷の仲は悪くありませんでした。家康は、恩を売ってる後水尾天皇と孫の和子をくっつけ、ゆくゆくは藤原氏にならって外戚関係を築いていこうとしたんでしょう。
後水尾天皇と和子の間には何人か子もいましたが、男の子はちょうどこの紫衣事件の直後に早逝しました。紫衣事件や春日局の件などで幕府に対してご気分を害された後水尾天皇は、和子との長女に譲位して退位を決行します。
女帝は即位後、独身を通さなければならない不文律があったため、これによって皇室の主流から徳川の血を遠ざけるぞという、意趣返しだったとも言われています。
その譲位自体は、紫衣事件の直後に宣言されていて、いやいやちょっと待って、和子のお腹にはまた子がいるし、男の子かもしれないし、とにかく待ってくれ、という幕府との綱引きが。で、譲位はするけど一時的なものってことで、その先のことはまた別だから、と後水尾天皇は少し譲歩の姿勢をとられます。
それに安心したのか幕府は、紫衣事件に反発した僧を罰したり、無官の斎藤福を寄越してきたりと大きな態度にでてきたため、後水尾天皇は譲位を予定よりさらに早めました。
そんな中、和子は男の子を産んだのですが、生まれてすぐ養子に出された上、ほどなく亡くなってしまいます。幕府はもう譲位について何も言うことなく、1630年、859年ぶりの女帝・明正天皇が即位しました。
この明正天皇は、家康のひ孫であり、秀忠と江姫の孫。江姫は信長の妹であるお市の方と浅井長政の娘ですので、なかなかにすごい血統です。残念ながら、後には続かないわけですけれども。
なおここで遠ざけられた徳川の血は、だいぶ後にですが、うっすらと皇室に、天皇に戻ってきます。なんと信長の血も一緒に。明治天皇の祖父、仁孝天皇がその血を受け継いでおり、そのまま今上天皇に繋がっています。
仁孝天皇の母、光格天皇の典侍であった勧修寺ただ子の祖母が、臼杵藩主稲葉恒通の娘で、その両親がそれぞれ信長と家康の血を引いています。
稲葉恒通の祖母の母が信長の次男である信雄の孫にあたり、稲葉恒通の正妻の祖父、大本藩藩主の松平直良が、家康の次男で秀吉の養子から結城氏を継いだ秀康の六男で。もっとも、これくらい「うっすら」なら、他の経路もありそうですけども。
だいぶ話はそれましたが、紫衣事件で幕府に反発して罰せられた僧の中には、吉川英治『宮本武蔵』でも有名な沢庵がいます。罰せられた僧たちは秀忠の死去に伴う恩赦によって赦されていますが、家光は沢庵に帰依し江戸へ呼び寄せています。
また家光は、後水尾上皇に謁見して多大な院領を献上し和議を結んでいます。家光としては、この一連の事件は本意ではなかったのかもしれませんね。
◎──島原の乱(1637年)
紹介するまでもないかもしれませんが、キリシタンへの弾圧に反発した一揆で、天草四郎時貞を総大将としたキリシタンたちと幕府との内戦です。
実際には、キリシタンの暴動というのは結果論で、キリシタン大名の有馬晴信の領地であった島原と、キリシタン大名の小西行長の領地であった天草の地で、それぞれ有馬氏、小西氏の後に封じられた松倉氏、寺沢氏が無茶苦茶な圧政を敷いたために起こった一揆、といったところみたいです。
実際はどうあれ、幕府はキリシタン弾圧のちょうどいい口実とばかりに一揆軍を殲滅します。が、原因となった松倉氏、寺沢氏も処分しました。当時、一揆をポルトガルが支援するような動きがあったようで、幕府はこの後ポルトガルと断交します。その裏には、ライバルであるポルトガルを日本から排除したいオランダの思惑もあったようです。
キリシタンや禁教についてはまたそのうち改めて。
◎──由井正雪の乱(1651年)
軍学者であった由井正雪によるクーデター未遂事件。徳川の世になって以来、多数の大名が減封、改易され、その結果として仕える家を失った浪人が各地に溢れていました。当然、浪人たちの幕府に対する不満は高まっていまして。
そんな世を憂えた刈谷城主松平定政は、自分は隠棲して知行二万石を返上するから分割して分け与え浪人を救ってやってくれ、と幕府に進言します。
幕府は、「何言ってんの? おかしくなったの? そんなこと言うなら取り潰すわ」という対応を取りました。幕府にとってその進言はある種の幕政批判だったからです。受け入れては幕府の名に傷が付くってなもんで、突っぱね、潰した。
ここで、由井正雪が義憤から立ち上がります。折しも家光が亡くなって、幼い家綱が将軍を継いだばかりの年。この機に仲間の浪人を集めて各地で決起し、幕府転覆を図るという計画を立てました。が、密告によってあえなく頓挫して、自害します。
無謀な計画を立てた上にバレて失敗し、まったくの無駄死にだったかというと、実はそうでもありませんでした。幕府はさすがに浪人問題を無視するのに限界を感じたようで、当時の改易理由ナンバーワンだった無嗣絶家、つまり跡取りがいなくてお家断絶、という事態を緩和するため、それまで禁止していた末期養子を解禁しました。
末期養子というのは、跡取りがいない当主が事故や急病で亡くなりそうな時に、幕府への事前の届け出などをすっとばして緊急に養子を迎えることです。
無嗣絶家による改易は、幕府にとっては手を汚さずに大名を整理できるために、それなりに都合が良かったのですが、結局、それによってあふれる浪人問題を解決できず。平和になった時代に、武士の再就職は難しかったんです。幕府としても、まあ、既にそこそこ整理できたし、ここらで手を打っておこうかと。
このあたりを境に幕府は、力に物を言わせた武断政治から文治政治と呼ばれるソフト路線へと転換していきます。単にタイミングの問題かも知れませんが、由井正雪の死も無駄ではなかったということでしょうか。
◎──明暦の大火(1657年)
江戸の大半を消失させた大火事。戦禍や震災を除けば、規模も被害者数も日本史上最大の火事で、江戸城の天守も焼け落ちました。
この火事には振袖火事という異名がありまして。裕福な商家の娘である梅乃が、本妙寺への墓参の帰りにすれ違った美少年に一目惚れ。どこの誰かも分からずどうにもならない思いを抱えたまま梅乃は病に倒れ、それを不憫に思った両親は、せめてもの慰めにと美少年が着ていた服の柄に合わせた振り袖を梅乃に。
ほどなく亡くなった梅乃の棺には、その振り袖をかけてやりました。当時は、そういった遺品は寺が受け取っていいことになっており、本妙寺の寺男はその振り袖を売り払います。
ところがしばらくして、また別の娘の棺にその振り袖がかけられて戻ってきます。また売りましたら、またしばらくして同じことが。
さすがにこれはと、住職が振り袖を焼いて供養しようとしたところへ、突風が振り袖を舞い上げて、その火が寺に移り。風に煽られた火はそのまま江戸の町を包んでいった、というお話。真偽は知らないですけどね。
なお、焼け落ちた江戸城天守は再建されませんでした。保科正之が、平和なこの時代に天守を再建するような費用があるなら復興に回せと進言したそうです。
◎──今日はこの辺で。
前回の最後、次回は忠臣蔵の話でも、と書いていたことなんてどなたも覚えていらっしゃらないと思いますが、すいません、赤穂事件まで届きませんでした。次回は……次回は……次回は、次回のお楽しみということでっ。
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