本記事は2015年03月09日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
◎──建武の新政
後醍醐天皇による親政の新政。
その建武の新政前後ですが、教科書ではほんの2〜3ページ、鎌倉時代と室町時代の間の一瞬の出来事で、存在すら記憶にない方も多いかと思います。
実際、建武の新政は二年間ほどの話で、簡単に言えば「後醍醐天皇が天皇親政を行おうとして失敗した」というだけのものですが、天皇が全ての権力を持って政治を動かした、というのは意外とレアケースなんです。
今の天皇はあくまで「象徴」だ、なんて言われますけど、歴史的にもほとんどの時代においてそんな感じです。まあ、だからこそ後醍醐天皇は、象徴でなく、実権を持って政治を行おうとしたんです。上手くいかなかったわけですけども。
今の日本国憲法第1条で「日本国の象徴」と明記されていて印象深く、それまでの憲法とはまったく違うと思われがちですが、大日本帝国憲法を見ても、実際、似たようなものです(もちろん色々と違いますけど、ざっくり言えば、です)。
大日本帝国憲法(漢字を現代のものにしています)
第1条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条:皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
1条、3条を見ると「天皇主権」だ、今の「国民主権」とは違う、と感じますが、4条、5条にあるように、憲法と議会に縛られています。そういう存在です。
十七条の憲法で第1条と第17条が「なんでもみんなで話し合ってやっていこうね」と書かれて以来なのか、それ以前からかは分かりませんが、基本的に日本では独裁を良しとしない空気がずっと有史以来続いています。
でも、後醍醐天皇はそれが嫌だった。それが嫌というか、それまでの幕府の、武士中心の政治体制が嫌だった。そこで幕府を倒し、天皇中心の政治体制に、それも完全に権力を一手に集中させての体制に、作り替えたかった。それが、建武の新政でした。
◎──足利尊氏、新田義貞、楠木正成、そして後醍醐天皇
一方、足利尊氏は武士ですから、鎌倉幕府は気に入らないものの、武士の世は続けたかった。「足利」なので見過ごされがちですけど、足利氏って源氏です。それも尊氏の家系は思いっきり源氏の本流。源義家から分かれた家系で、鎌倉幕府でも中心的な家柄でした。
ちなみに新田義貞も同じく源氏で、源義家の子、義国のところで足利氏と新田氏に分かれました。色々あって、足利氏が本流、新田氏は傍流といった感じ。
家柄って大事なんですね。前回書いたように、同時期に後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府に反旗を翻した両者ですが、「鎌倉」を攻略して落としたのは義貞。なのに、世間の評価は「尊氏が鎌倉幕府を倒したぜ!」って空気で。きっと、義貞は面白くなかったと思います。
その後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立した際、新田義貞が後醍醐天皇に与したのは、そんなこともあってのことじゃないですかね。
楠木正成は、家柄も何も関係ない。関係ないというか、ほとんど何も分かってないのですが、後醍醐天皇を主君と仰ぎ、それを貫き通しました。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した際のこと、これを退けながら天皇に尊氏との和睦を勧めるも聞き入れられなかった正成は、それでも天皇に味方し、最後までずっと弟の正時と共に戦い続け、死後は息子の正行も遺志を継いで戦います。
後醍醐天皇の南朝方と、足利尊氏の北朝方は北朝方の勝利に終わり、南朝方の正成たちは結果的に逆賊扱いを受けますが、南朝寄りで書かれた『太平記』はもちろん、北朝寄りで書かれた『梅松論』でも、その忠義は評価されています。
また江戸時代には水戸黄門こと徳川光圀は、儒教思想から忠臣の鑑と絶賛。荒れ果てた正成の墓を整備して、「嗚呼忠臣楠子之墓」との墓碑を建てます。
余談ですが、建てたのは助さんのモデル佐々介三郎(佐々宗淳)です。また、ずいぶん時代は下って江戸末期、楠木正成を祀った湊川神社が建てられます。なお息子の楠正行は明治時代になって、四條畷神社に祀られました。
逆賊とされた楠木正成たちですが、後の世では紆余曲折を経て南朝の正当性が主張されて評価は逆転、楠木正成は尊皇派の英雄扱いに。尊氏、無念。
◎──そして室町時代
なんだかんだあって足利尊氏が実権を握り、室町に幕府を開きます。その幕府が続いている間を室町時代と言います。最後は戦国時代でうやむやですけども。
先に断っておくと、この室町時代、文化面ではともかく、政治面では個人的にあまり面白さを感じていない時代で、しかもあれこれごちゃごちゃと複雑で、ろくに勉強もしませんでした。なので超速で駆け抜けますね。(笑)
室町時代に入ってからも最初の半世紀ちょいは南北朝の時代です。京都と吉野の朝廷がそれぞれ正当性を主張して譲らず。しかも、開幕を共に戦った尊氏と、その弟の直義も分裂。もう、のっけからゴタゴタです。
武に秀でた尊氏と政治に長けた直義の兄弟が、手を取り合ってそのまま政治を進めていればよかったのに、側近の高師直が悪かったのか、尊氏があまり政治に明るくなかったのが悪かったのか、尊氏&師直の急進派と、直義の漸進派が対立。南朝方、北朝方急進派、北朝方漸進派の三つ巴時代に。その混乱状態を取りまとめて治めたのが、三代将軍の足利義満です。
◎──足利義満
三代目にして室町幕府のピークです。というか、義満あっての室町幕府です。義満は南朝に働きかけ、南北朝の合体を実現。政策も推し進め、全国を幕府の統制下に落ち着けます。その政治の場が室町の花の御所だったので、室町幕府、というわけです。
義満は将軍として初めて太政大臣の官職を得るなど権勢を極めます。一説には、天皇に取って代わろうとしたとも言われています。あと一歩のところで寿命を迎えてしまい、天皇(上皇)にはなれませんでしたが、その死後に朝廷から、太上天皇の称号を与えらる手前までいきました。幕府が辞退しちゃったんですけどね。
◎──義満の死後
義満は政治体制を整えて、亡くなった後もしばらくは安定していたんですが、徐々にあれこれ乱れてきます。誰のせいでもないっちゃないんですけれども。超人だった義満の後なんて、誰も継げなかったんでしょう。将軍の権力を最高まで引き上げたものの、死後は有力大名の合議体勢にいったん落ち着きます。
義満が凄すぎた上に、ちょっと公家的な動きに武士たちが難色を示していたのをなだめる意味合いもあったようです。平清盛の先例にならったのかもしれませんし、単に後を継いだ義持が義満に反発していたからかも知れません。
各地を任された守護やら有力な職についた家が力を付けてきたり、その相続で揉めたり、農村は農村で自治組織を結成したり、安定期にも色々と争いの火種は生まれてきていて。で、その中でも有力大名を何とかしたかった六代将軍の足利義教は、それを将軍家の力で押さえつけようとして大揉めに。
◎──くじ引き将軍・足利義教
足利義教は、義満の三男なのですが、なんとくじ引きで将軍になった人です。
義満より将軍職を9歳で譲られた四代将軍の義持は、義満が存命中は名ばかりの将軍でしたが、義満の死後、なんだかんだ上手くやりくりして、在位28年と室町将軍で最長の在任を務めます。
嫡子の義量に将軍職を譲って出家しても、父親同様に実権は握ったままだったんですが、義量は義持と違って早々に亡くなってしまい、結局は義持が政治をすることに。義量には子がおらず、跡取りどうするよって話もはっきりさせないまま、義持も亡くなって……くじ引き。
義教は出家してたのに、半ば強引に呼び戻される形で六代将軍になりました。出家もよくある形だけの出家とは違って、天台座主として「天台開闢以来の逸材」とまで言われていたのに、くじ引きで……。
そんなこんなで、どこかやけになっていたのか、何かと強引な政治を行って、古巣の延暦寺とまで抗争を起こしたり。でもさすがは「逸材」らしく、将軍の手にしっかりと政治の実権を握り、幕府の威光を高めました。有力大名の家督問題などにもがんがん介入したり。室町幕府、二度目のピークです。
で、その結果、我が身を案じた守護大名の赤松満祐に暗殺されるんですけどね。手腕は凄かったんですが、強引に推し進めたその政治を適切な落とし所に落ち着ける前に暗殺され、暴君としての評価だけ強く残る結果となりました。
上の方で「独裁を良しとしない」って書きましたけど、失敗した後醍醐天皇はさておいて、義満しかり、義教しかり、どんなに優れた手腕をもっていても、大抵はその代限りで終わってしまうんですよ、独裁って。人は老いて死ぬから。
独裁の方が良い面もあるにはあるんです。一気にものごとを推し進める力は、合議ではなかなか生まれません。でも続かないんです。義満も義教もある程度、その後に続く体制を残していますが、それでも程なく失速しています。
その点、そういったことを良く理解して、意識的にきちんと後に続く礎を残したのが、徳川家康ですね。それですら260年で終わりましたが。
◎──応仁の乱へ
義教の子、七代将軍の義勝は10歳で早世。8歳の義政が八代将軍に就きました。そんな子供たちに政治が務まるはずはなく、また実権は将軍家から有力大名へ。義政は晩年に銀閣寺を建てたことで知られるなど、どちらかといえば文化人の道へと進むことになります。
さて義政は、後世に悪女と名高い日野富子と結婚していましたが、子もなく、将軍職は出家していた弟を呼び戻して、九代将軍足利義視に譲って隠居します。が、弟に将軍職を譲るやいなや、息子誕生。ええ、もう、後は想像通りですよ。
同時期に、政治の実権をめぐって山名宗全と細川勝元の争いが勃発、将軍家の家督問題と相まって、最悪の争乱「応仁の乱」へと突入。管領家やら有力大名の家督争いも加わり、もう、手が付けられない状態に。ええ「戦国時代」です。
11年続いた応仁の乱で、京都は壊滅しました。応仁の乱自体には終止符が打たれたものの、全国的な混乱は収まりません。時代も悪く、飢饉や災害も相次ぐ大変な時代でした。戦国時代は終わるどころか、拡大していきます。
◎──ちょっと年表で整理
1333年 鎌倉幕府滅亡
1334年 建武の新政
1335年 中先代の乱(後醍醐天皇 vs 足利尊氏)
1336年 湊川の戦いで、楠木正成が戦死
1336年 後醍醐天皇、吉野へ
1336年 足利尊氏、建武式目を制定
1338年 足利尊氏、征夷大将軍に。京都に幕府を開く
1349年〜1352年 観応の擾乱(足利尊氏&高師直派vs足利直義派)
1368年 足利義満、将軍となる
1368年 朱元璋が元を追い払い、明を建国
1378年 足利義満、京都室町通に「花の御所」を造営開始
1392年 南北朝合一
1394年 足利義満、太政大臣となる
1428年 くじ引き
1441年 嘉吉の乱(嘉吉の変)、足利義教暗殺される
1449年 足利義政、将軍となる
1467年〜1477年 応仁の乱。
◎──戦国時代、そして織豊の安土桃山時代へ
応仁の乱をきっかけに全国は乱れ、群雄割拠の時代に突入します。文字通り、各地の有力者が地域地域に独自の領国を形成します。これが戦国大名です。各地に起こっただけでなく、それを奪い合い、成長させていきます。
京都から関東へくだり伊豆を奪って相模へと進出した北条早雲、越後の守護代からのし上がった上杉謙信、甲斐から信濃へ領国を拡張させた武田信玄など、有名どころがわんさか出てきます。各地で同時多発的に色々な動きがあるので、全部追いかけていくとキリがないため、割り切って信長中心に書きますね。
次回、いよいよ時代は近世へと入っていきます。
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