本記事は2015年03月02日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
◎──頼朝と義経
前回も書きましたが、源頼朝が平氏を討って源氏の勝利、鎌倉幕府スタート。とまあ、ざっくり言えばそんな感じですが、そこにはかなりの紆余曲折があり、例えば「平氏を討て」と令旨を出した以仁王は早々に逆に討たれていますし、頼朝自身も挙兵してすぐの石橋山の戦いで敗戦して命を落としかけていますし、一緒に闘っていた木曽義仲とは決裂して、源氏同士の戦いも起きていますし、細かく書いているとキリがないくらいで。
そんな中で光るのはやはり源義経の三連勝。一の谷、屋島、壇ノ浦と平家物語でも華々しく描かれている三つの戦いの勝利です。アウェイ戦での3ゴールは、驚異的なものでした。まさに戦の天才。その後、頼朝に討たれるわけですけど。
頑張って最大の功績を挙げたにもかかわらず、実の兄に疎まれて討たれた義経は、悲劇のヒーローとして人気が高く、頼朝はなんて冷酷なんだという言われ方が昔からされてきました。判官贔屓(判官=義経)、なんて言葉が室町時代には既に言われていたくらいに、世間は義経に同情的でした。
この「判官贔屓」をWikipediaで見ると、
『客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、敢えて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象』
とあります。基本的には、判官を贔屓するのは客観的にはおかしいってことでしょう。
まあ実際、討たれるにはそれだけの理由があったようで、物語などでよくある頼朝が義経の人気に嫉妬してとか、戦の才能を恐れてとか、そんな単純なものではなかったと思います。
嫉妬で身内の功労者を討つようなリーダーなら、普通に考えて、「器」じゃないですよね。少なからず、大勢は頼朝の判断には筋が通っていると判断したわけです。梶原景時の讒言で義経は追い込まれたと、物語などではよく描かれますが、それがなくとも十分に罰を受けるくらいには、勝手な振る舞いが過ぎた。
戦はできても政治は分からないタイプの人だったんですね。
全然話は変わりますが、頼朝と言えば関東人のイメージですが、親の代まではメインは京都ですし、本人も生まれは名古屋です。「河内源氏」の血筋なので大阪にも縁があります。晩年には住吉大社で大流鏑馬会を開催したりも。
いや、すいません、伊豆だの鎌倉だのと自分にとって遠い土地の話ばかりだったので、ちょっと関西の話題に触れたかっただけです。
◎──北条氏
鎌倉幕府を語るにあたって外せないのは北条氏の存在。頼朝の嫁の実家です。頼朝が北条時政の娘政子と結婚したのは伊豆に流されていた時代で。つまり、頼朝がなにひとつ持っていなかった時代のこと。
伊豆の有力者であった時政は、そんな頼朝を娘婿として認めたわけですよ。先見の明と言うには早すぎるほどの選択ですが、もちろん偶然じゃなく、それなりの読みがあったんでしょう。
ひとつは単純に、源氏という名門の血を取り込んでおきたかったという理由もあったと思います。それともうひとつ、平氏の世は長くはない、という読みがあったようです。平清盛全盛期に、ですよ。まあ願望もあったのかも。
同じような読みを、おそらく奥州藤原氏の藤原秀衡も持っていたと思います。流浪の義経を同時期にキープしているので。こちらは結局、最終的には裏目に出て、頼朝と揉めて落ち延びてきた義経を匿ったとして滅ぼされますけども。
どうして北条氏や藤原氏が平氏の凋落を予見したか。平氏は武士なのに、武士からの評判が悪かったからです。保元・平治の乱を経て、武士が力を持って、ついに政治を左右するところまできた。
いわば平氏は武士界の出世頭だったんです。お仕えの軍事力でしかなく、卑しい仕事と蔑まれていた武士が、次第にのし上がっていった。でも清盛は「武士として」政界に進出するのではなく、「公家」としての道を選びました。世の武士たちはガッカリ。
後に頼朝は、「武士の世」を作るべく体制を整えていき、武士の心を掴みます。それがきっと頼朝亡き後も「いざ鎌倉」という空気に繋がったのでしょう。
◎──頼朝の死後
頼朝の死後、北条氏が幕府を思うままにした、というような話をよく聞きます。学校の授業でもそんな感じだったような。結果から見ればそうなんですけども、正直、頼朝の跡継ぎだった頼家が「器」じゃなかった。少なくとも、北条氏から見れば。若くして後を継ぐことになったこともあるんでしょうけど。
頼朝と政子の間には、頼家と実朝という息子がいました。二代将軍はその頼家。頼朝が割と急に倒れて、18歳で後を継ぐことになった頼家は、張り切ったのか、独断専横っぷりを見せます。
時政は「お前、それあかんで。これからは合議制でいくからな」と、有力御家人による「十三人の合議制」を敷きますが、頼家は反発。嫁の実家の比企氏とべったり。
結局「こいつはあかんな」と、早々に手を打たれることに。このあたり色んな記録や説がありますが、比企氏も頼家も消されます。三代目に実朝を据えて、頼家は暗殺されました。
そんな実朝は12歳。政治はもちろん最初は北条氏たち御家人任せ。でも大きくなるにつれて、ちゃんと仕事も頑張ります。また歌人としても活躍しますが、頼家の子である公暁に、親の敵と暗殺されてしまいます。
実朝には跡取りがいなかったために、源氏将軍は三代で潰えてしまいました。四代目は、頼朝の妹のひ孫という遠縁もあり、摂関家の藤原氏から藤原頼経が招かれ、源頼経として「摂家将軍」に。
その後はまあそんな感じで、摂関家や宮家から幼い子を呼んで将軍に据えて、成人したらまた幼い子と交換してって感じで、名目上の将軍を据えて、執権である北条氏を中心に政治を行いました。最初の頼経って、将軍にされたの1歳そこそこですって。
北条氏は、時政以来、二代の義時、三代泰時、五代時頼、八代時宗と、歴史の授業で習う面々だけでもみんな有能だったんですね。九代の貞時でちょっと、風向きが変わってしまいますが、まあ不運ってのもあって。
そう思えば、鎌倉幕府を北条氏が乗っ取ったのではなくて、そもそも最初から、北条氏あっての鎌倉幕府、だったんでしょう。頼朝の時代から。
◎──承久の乱
少し話を戻して、北条義時の時代。実朝が三代将軍に就く前後で、時政は義時と対立。政子は義時の側で、二人は時政を追放して義時が二代執権に就きます。まあ、政治的な諸々は置いといても、父親より息子を取りますよね。(笑)
その義時の時代に起きたのが、承久の乱。武家政権の鎌倉幕府ですが、全国を幕府が一元的に取り仕切っていたのではなく、公家は公家で政治を行っており、武家政権と公家政権が並立している状態でした。そうなれば対立も生まれるというもので。当時の公家政権のトップ、後鳥羽上皇が倒幕を図ります。
後鳥羽上皇は兵を挙げて、義時を討てと綸旨を出します。幕府の御家人たちも朝廷に逆らうようなことはせず、勝てるだろうと踏んでのことです。
そこで北条政子ですよ。「鎌倉に幕府を建ててあんたら御家人を支えてきたのは頼朝でしょうが。いまこそ恩に報いるときでしょ。文句ある奴は名乗り出てこいよ」と。で、みんなこの姐さんの言葉についていきます。上皇大慌て。
激しい戦闘の末、敗色が濃くなった時点で後鳥羽上皇は「ちゃうねん、これは悪い臣下にそそのかされてのことやねん、間違いなんですわ、綸旨ももちろん取り下げますから」と言い訳するも、時既に遅し。敗戦を迎えます。
後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ島流し。討幕計画に反対していた土御門上皇も自ら土佐国へ配流されました(後に阿波国へ)。仲恭天皇は皇位を奪われて、後堀河天皇が立てられました。
これで朝廷は幕府に首根っこを押さえられます。三代泰時は武士を統制するにあたって法典の整備を進め、御成敗式目を定めます。
◎──元寇
時は進んで、七代執権政村の時代。中国大陸には蒙古の国「元」がありました。チンギス・ハンの孫、フビライ・ハンが五代皇帝に即位した8年後の1268年正月、高麗の使節が蒙古への服属を求める内容の国書を持ってきます。高麗は元から度重なる侵攻を受けて既に服属していました。
フビライが日本に興味を持ったのは、高麗人と、あとマルコ・ポーロから、日本は豊かな国だと聞かされたからだそう。それで日本の富が欲しくなって、使いを寄越してきたわけですね。朝貢しろと。
七代の政村と六代の長時は、本家の時宗がまだ幼かったための中継ぎでした。ちょうど時宗が18歳になったので、政村は時宗を執権として、既に高齢だった自分は裏方に回って、北条氏一丸となって元に臨む体制を整えます。
何度となく使節が送られてきますが、華麗にスルー。一度様子見に、日本から元に使節団が訪問していますが、本当に様子見だけで、さくっと帰国します。フビライは、なんだかんだで未到着のもの含めて6回も日本に使いを送るものの、まったく反応を得られず、業を煮やして攻め込んできます。
まずは文永の役。結果はご存じの通り、なんとか退けました。神風が吹いた、とのことですが、神風は撤退する元軍に追い打ちをかけただけで戦闘そのものは神風と関係なく勝ったようです。
文永の役の後、フビライは偵察がてら7回目の使者を送ってきます。が、時宗は使節団を鎌倉に連行して、斬首。それとは別にフビライは二度目の侵攻の準備を進めつつも、南宋との戦いに一時注力します。
そちらが落ち着いて、改めて日本に目を向けた時、第7回の使節が斬首されたと知らないままに、再び使節を送ってきます。使節は博多で斬首されました。
文永の役から7年後の1281年、フビライは再び日本を攻めます。弘安の役です。今度は戦闘中に「神風」が直撃。文字通り追い風もあり、またこれを退けます。
フビライはここで終わらず、まだ侵攻を図ったり使節を送ってきたりしますが、どれも実らず、日本は防衛を果たします。
◎──元寇の余波
元寇は総力を挙げて退けました。しかし、無事に守り抜いたものの防衛戦のため、それで得る直接的な利益は何もありませんでした。御家人たちは自費で戦ったのですが、恩賞として与えられる財源は何もないわけです。借金をして戦った御家人も多く、終わってみれば困窮だけが残りました。
窮状は重々承知の幕府も、ない袖は振れず。そこで九代執権の貞時は、借金を帳消しにする命令「徳政令」を出して、どうにかしようとしました。これで、確かに借金は消えました。が、困窮していた御家人たちは、これをきっかけに、もうその後、誰も貸し手がいなくなり、借金ができなくなったのです。完全に裏目に出てしまいました。
唐突な話ですが、そんな折、ハレー彗星がやってきます。ただでさえ鎌倉時代は災害続きの時代で、大地震や飢饉のオンパレードでした。貞時は彗星を見てさらなる事態の凶兆だと感じ、出家してしまいます。そして晩年は酒におぼれ生涯を閉じます。ついに北条氏が支えてきた幕府が揺らぎます。
◎──後醍醐天皇と悪党
そんなこんなで御家人たちの不満渦巻く中、幕府の御家人たちとは別に「悪党」と呼ばれる独立勢力の武士も台頭してきます。同時期、朝廷復権のチャンスと見て、後醍醐天皇が倒幕を画策します。また後醍醐天皇にとっては、朝廷復権だけでなく、この当時複雑になっていた皇位継承問題を片付けるチャンスでもありました。
時代は少し遡り八代前、後嵯峨天皇は二人の皇位継承者がいて、まず一人目に皇位を譲り(後深草天皇)ますが、十数年で二人目に皇位を譲らせ(亀山天皇)ます。そしてその皇太子には亀山天皇の子、後の後宇多天皇を指名して、少しして亡くなります。元寇直前くらいの話です。
で、まあ、今後どうするよって話の末に、後深草天皇系の持明院統と、亀山天皇系の大覚寺統で交互に皇位を譲り合っていこうかという形になります。
亀山天皇の後は息子の後宇多天皇、その次は後深草天皇の息子の伏見天皇と。ここまではまだ良かったんですが、後宇多天皇も伏見天皇も皇位継承者を二人立てて、その代は四人で回すことに。その四番目が後醍醐天皇です。
なかなか順番回ってこないわ、しかも下もまたつかえてくるわで、一念発起と。「俺が取りまとめるぞ」と。
それはそれとして、何はさておき、倒幕です。朱子学にはまっていたとされる後醍醐天皇は、覇道で君臨した幕府は国のリーダーにふさわしくなく、自らが徳を持って王道で頂点に立つべきだと考えます。しかし、倒幕計画を立てるも露見して頓挫。なかなか上手くいきません。でも諦めません。後鳥羽上皇の時とは違って、流れは確実にきているのです。
でも後醍醐天皇には武力が足りなかった。一方、幕府に不満を募らせる御家人や悪党たちには大義名分がなかった。両者はここに利害の一致をみます。楠木正成や足利尊氏が登場する『太平記』の時代です。
◎──倒幕と建武の新政
後醍醐天皇は二度目の倒幕計画を立てますが、これまた露見して失敗します。今度は言い訳むなしく捕縛され、隠岐に流されます。でもまだ諦めません。子の護良親王も、河内の悪党・楠木正成らと倒幕の動きをみせます。後醍醐天皇も、隠岐を脱出して味方を募って挙兵します。
その後、醍醐天皇を討つために幕府から足利高氏(尊氏)が派遣されますが、足利尊氏は後醍醐天皇に味方して、幕府の出先機関である六波羅探題を攻略。関東では、同じく御家人の新田義貞が鎌倉を攻略して、ここに北条氏が倒れ、鎌倉幕府は滅びます。
ついに宿願を果たした後醍醐天皇は、早急に親政を推し進めます。これが「建武の新政」と呼ばれるものですが、後醍醐天皇には情熱はあっても政治力はなく、武士からも、公家からも反感を買う結果に。
ちょうど北条氏の残党が反乱(中先代の乱)を起こすのですが、尊氏は天皇の許可を得ないままにそれを鎮圧に向かいます。鎮圧した尊氏は、そのまま鎌倉に居座る動きをみせます。そして結局、後醍醐天皇と対立。
後醍醐天皇は側に残った新田義貞と楠木正成に、尊氏を討つことを命じます。幾度かの攻防の末、尊氏は九州へ落ち延びますが、再び体勢を立て直して京都に攻め上ってきます。
ここ少しややこしいのですが、これでは尊氏は天皇に弓引く「謀反人」ですね。でも尊氏もそのあたりのしきたりは守ります。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して倒幕を図り隠岐へ流された際に、幕府は後醍醐天皇を廃して光厳天皇を立てています。
が、後醍醐天皇が勝利した際、それを全部「なかったことに」します。足利尊氏はその「なかったことに」をなかったことにして、光厳上皇に近づき、その院宣を受ける形で京都に攻め上りました。
結果、楠木正成は討ち死に、新田義貞は敗走、尊氏は勝利をおさめます。尊氏は光明天皇を擁立して、建武式目を定め、幕府を開きます。一方で後醍醐天皇は、逃れ逃れて吉野へ辿り着き、自らの正当性を主張して朝廷を開きました。京都の北朝と吉野の南朝が並立する、南北朝時代となります。
◎──そして室町時代へ
次回は室町時代。できればそのまま信長や秀吉の時代まで進んで、江戸時代の入り口まで行きたいですが、行き当たりばったりで進めているため不明です。
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