本記事は2016年8月29日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
デジクリ投稿当時、NHK大河ドラマ『真田丸』はいよいよ次回から関ヶ原の合戦に向かうぞというところでした。さあ三成は家康に勝つことができるんでしょうか。
なんて、歴史の話ですから、結末は分かっているので、何とも言えない気持ちで見届けるのみなんですが。
その結末は結末として、三成はどうすればよかったのか、どうすれば死なずに済んだのか、なんてことを考えるのも面白いもので。作中で大谷刑部からも人望のなさを指摘されている三成ですが、もし上手く立ち回れていたら、もし周到に根回しができていれば、違う結末もあったのかもしれません。
さて今回は前回に続いて吉田松陰についてのお話ですが、松陰先生の場合は、どうすれば死なずに済んだのかなんてことは、考えようがない感じです。
もうこの方にはこの結末しかなかったというか。ああしていれば、こうしていれば、という仮定が成り立たない。軍学者なのに戦略だの戦術だのという話はそっちのけに、ただひたすらに己の誠に従っての直球勝負のみ。しかも剛速球。しかも全球がバッターの頭部を狙ったようなビーンボールという……
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」ですね。打算も何もない。分かっていても、やるしかない。それが松陰先生。Wikipediaによると、「テロリズムとは、政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・破壊活動などの手段を行使すること。またそれを認める主義」とあり、これで言えば、松陰先生はまさにテロリストです。
ただ時代背景を鑑みれば、単純にその行為を悪と断じてしまえるものでもなく、そのあたりが難しいところです。まあ時代背景だなんだは関係なく、正義だの悪だのというのは難しいものですけどね。
秀吉が亡くなるや権力の簒奪を図り天下を手中に収めた家康を悪人と見ることもできますし、その後三百年に渡る太平の世を築いた偉人と見ることもできますし。
松陰先生も、無茶苦茶なことばかりやった狂人、とも言えますが、その薫陶を受けた人たちが文明開化を成し遂げ、この国を列強に伍する近代国家へと改革せしめたことから、今の日本を作った偉大な教育者とも言えるでしょう。
あるいは、その延長線上にあったのが日清、日露、太平洋戦争ではないかとの糾弾もまた同時に可能だったりもします。私が松陰先生の立場なら「そこまで知らんがな」と言いたいですが。(笑)
前置きが長くなりましたが、前回の続き、黒船密航失敗あたりからまた。
◎──松陰先生の後半生
松陰先生にまつわる本などを見ていると、黒船密航失敗を境にして、前半生、後半生と分けたものが多いように思います。一生の時間軸から言えばかなり偏るんですけどね。黒船密航を決行したのが24歳で没年が29歳ですし。
でも、やはり松陰先生の人生最大のターニングポイントはそこにあるようで、多くの人材に大きな影響を与えた教育者・吉田松陰はこのあたりで覚醒します。
元々が藩の軍学師範ですから、まあ最初から教育者ではあったわけですけども、周囲を感化する力がさらにパワーアップしていきます。
◎──野山獄
密航失敗で自首して捕らえられた松陰先生は、国許蟄居との沙汰を受けます。長州では幕府に気を使ってか、単なる蟄居で済まさず、野山獄という収容所に放り込みました。個室に仕切られた牢獄です。
前回、ここで松陰先生は膨大な書物を読み、執筆も重ねたという話を書きましたが、それだけではありません。ここで松陰先生は、先に入っていた囚人に対して講義を行い、囚人たちを感化していきました。何十年と投獄されている囚人から、果ては牢番など役人まで、松陰に学んで感化されていきました。
また、獄中で「福堂策」という、獄のあり方についての献策を執筆しました。これはアメリカの制度も引き合いに出しつつ、獄には更正施設としての役割を持たせるべきだとし、その具体的な方法を列挙したものです。
その中で有名な一節が「人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん」で、「人は賢愚の差はあるとしても、ひとつふたつ才能はあるもので、それを引き出し伸ばしてやれば、立派な人になるだろう」という感じの言葉です。こういった考えはそのまま、松下村塾へと繋がっていったのでしょう。
◎──松下村塾
囚人たちに惜しまれながら野山獄を出て実家に帰った松陰先生は、その二年後、実家で松下村塾を開きます。前も書きましたが、塾の名前は元は叔父が開いていた塾から受け継いだものです。
塾生は、なんだかんだで最終的には延べ50名くらいがいたそうで、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎が有名どころ。
塾と言っても講義を聴講するようなスタイルではなく、生活を共にしながら、互いに議論を交わすといったものだったそうです。
1857年(安政4年)に開いたのですが、翌1858年(安政5年)に幕府が無勅許で日米修好通商条約を結んだことにブチ切れた松陰先生は、老中首座の間部詮勝の暗殺計画を立てたり、参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け合流を図り京へ向かう計画を立てたり、倒幕を唱えたりし、また野山獄に放り込まれます。
なお、ブチ切れた松陰先生、塾生になだめ諭され、さらにブチ切れたという話。
二年足らずの活動期間を思えば、松下村塾が人材を輩出したというより、人材が松下村塾に集まった、と考えたほうがいいかもしれません。どっちにしてもすごいですけどね。
◎──斬首
1859年(安政6年)、いわゆる安政の大獄の流れで攘夷運動家の梅田雲浜が捕縛され、雲浜と面識のあった松陰先生も江戸に呼び出されました。
役人「雲浜と何かよからぬ話でもしなかったか?」
松陰「いや、雲浜なんかと大した話はしてないです」
役人「そうか」
松陰「それより、老中暗殺を計画していました」
役人「そうか……って、おい!ちょっ、おまっっ!!!」
斬首になりました。
◎──この辺でひとまず
エピソードに事欠かないお方なので、まだまだいくらでも紹介したい話はあるのですが、キリがないので今回はこの辺でひとまず終わります。
最後に今回読んだ参考書籍の一部をご紹介。
・『吉田松陰 武教全書講録』川口雅昭(ケイアンドケイプレス)
・『[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき』松浦光修(PHP研究所)
・『[新訳]留魂録 吉田松陰の「死生観」』松浦光修(PHP研究所)
・『兵学者吉田松陰 ─戦略・情報・文明』森田吉彦(ウェッジ選書)
・『感化する力 ─吉田松陰はなぜ、人を魅きつけるのか』齋藤孝(日本経済新聞出版社)
・『明治維新という過ち─日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織(毎日ワンズ)
・『吉田松陰(1・2)』山岡荘八(山岡荘八歴史文庫)
・『世に棲む日日(1・2・3)』司馬遼太郎(文春文庫)
・『逆説の日本史18・19』井沢元彦(小学館)
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