ざっくり日本の歴史(その31)

本記事は2016年7月25日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

前回と前々回は新選組の話を取り上げて、その中で容姿の話にも少し触れましたが、なんと、なんとこのタイミング(日刊デジクリ掲載当時)で、斉藤一の写真が発見されました!! しかも、イケメン!!!

・斎藤一の鮮明な写真見つかる「これが死線くぐった目だ」
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/15/hajime-saito_n_11008828.html

明治30年の写真なので、おじいちゃんですけど、かっこいい!

写真でも絵でも、その見た目ってなんだかんだイメージする上で重要で。特に歴史上の人物なんて想像するしかないですしね。ドラマ化された時なんかも、配役の容姿がイメージに合っているか、演技と同じかそれ以上に大事だったり。

歴史上の人物ではありませんが、ここ最近『シャーロック・ホームズの冒険』を動画配信サイトで少しずつ見てまして。英国グラナダTV版、ホームズ演じるジェレミー・ブレットがめちゃめちゃかっこいい。かっこいいだけでなくて、原作の挿絵から抜け出てきたのかってくらいそっくりでもあって、最高です。

・U-NEXT『シャーロック・ホームズの冒険』(有料)
http://video.unext.jp/title/SID0011235

そしてNHK大河ドラマ『真田丸』の話なんですが、小早川秀秋を浅利陽介さんが演じられています。この浅利陽介さん、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも小早川秀秋役で。同じ役が二回振られるだけあって、これがまた、小早川秀秋の肖像にそっくりなんですよ。どこか気の弱そうなところが。(笑)

大河で肖像に似てると言えば、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で吉田松陰先生を演じた伊勢谷友介さん。こちらも本人(の肖像に)そっくり!

もっとも、浅利さんも伊勢谷さんも、改めて写真を見比べると、まあそこまでそっくりかなあと思ったりもするので、そこは演技のなせる技なんですかね。

さて前置きが長くなりましたが、今回は伊勢谷、いや、吉田松陰先生のお話を。

以下、松陰、松陰先生と、表記が揺れますが、ちょいちょい敬意が漏れ出てるということで気にせず読んでください。

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◎──吉田松陰(1830年9月20日-1859年11月21日)

没年からわかるように、松陰先生自身は維新に直接関与していません。ただ、松陰が開塾した「松下村塾」の門下生に、維新に大きく関わった面々がずらり並んでいるので、反幕府側の最初としてこの方から取り上げようかと。

なお、松下村塾を開塾と書きましたが、元々は叔父の玉木文之進が開いた私塾で、松陰自身も幼少の頃そこで学んでいました。松下村塾の名を継いだのは、松陰で三代目になるのですが、講義内容とか体制に連続性はなさそうなので、「松陰の松下村塾」ってことで。

松陰は長州の萩で杉百合之助の次男として生まれ、山鹿流兵学師範の吉田家に養子に行きました。養父はすぐに亡くなり、前述の通り松下村塾で玉木文之進に学ぶのですが、9歳で藩校である明倫館の兵学師範に就任。11歳で藩主の毛利慶親に御前講義を行うなど、まあ天才児ですね。

明倫館の師範就任は家柄から家学教授ということで、就任自体は形式的な部分もあったと思いますが、御前講義の出来は慶親に高く評価されたとのことです。なお、この時講義した題材は、山鹿素行『武教全書』です。

思いっきり余談に逸れますが、松陰の兄、杉民治の孫である杉道助は大阪商工会議所の第十六代会頭です。山口で生まれ、慶應義塾大学を経て大阪に。墓所は萩にあって、「杉家第八代。生涯松陰を敬慕」と立て札に記されています。また杉道助は、海外市場調査会(現・ジェトロ)の創設者でもあります。

・創設者・杉道助氏の想いとジェトロの中小企業海外展開支援について(PDF)
https://www.jetro.go.jp/ext_images/jetro/japan/yamaguchi/magazine/pdf/vol23.pdf

杉家の子孫にも敬慕される松陰ですけども、まあとんでもない人でして。幼少の頃から兵学のみならず、広く学問に励んだ松陰ですが、その松陰が10歳の時、清がアヘン戦争で大敗、それを知って西洋の学問の必要性を感じます。

20歳で九州に遊学、さらに江戸に向かい佐久間象山や安積艮斎に師事します。山鹿流の兵学者として、山鹿素行の子孫である山鹿素水にも入門しますが、松陰の感想は「この人は大したことねーな」って感じだったみたいです。

松陰が強く影響を受けたのは、佐久間象山。象山はまたいずれ改めて取り上げたいです。

この間、肥後藩の宮部鼎蔵と知り合い、22歳の時、宮部らと東北遊学を計画。この東北遊学に向かう時、藩に申請していた通行手形の手配が出発予定の日に間に合わず……「宮部さんと約束してるのに延期なんてしないよ」と脱藩。

脱藩は重罪です。江戸に戻ったら士籍剥奪されました。

なおこの宮部さん、前々回に書いた、新選組に池田屋で斬られた宮部さんです。

◎──この国を守る意志

そこまでして東北に何しに行ったのかって話ですが、ネットや本を見ると時々「旅行」と書かれています。まあ、旅行っちゃ旅行ですけど……物見遊山ではありません。

松陰より時代は遡りますが、田沼意次や松平定信らの時代の話、工藤平助『赤蝦夷風説考』、林子平『海国兵談』などでロシアの脅威に対する海防の重要性が説かれました。

『海国兵談』は幕府に発禁とされていましたが、書き写され書き写され世に伝わっていました。松陰は兵学者としてそれを読み、東北を実地検分することで海防について確認したかったんでしょうね。

林子平は、江戸の日本橋からヨーロッパまで世界は水路で繋がっている、ってなことを言った人です。

海に囲まれた日本は、それまでまあ安全な国でした。外国はなかなか日本まで攻めてこられない。最強の騎馬隊を誇った元軍も、馬で海は越えられず、神風で追い払われました。

その元、というか中国は、周りの国から自国を守るため、万里の長城なんてものを築く必要があったのに、日本はそこまでしなくても、海が守ってくれていました。増強はできませんが補修もいらず、季節によって荒れ狂ってくれたりと、それはそれは頼りになる存在でした。

ところが、だんだん世界の航海技術が海を平気で渡るようになってきた。信長の時代にはもうヨーロッパからやってきていたわけですから、幕末までの間に船も航海術もさらにどんどん進化していってます。同時に武器も。

一方で日本は鎖国政策の一環で、外国に渡れるような船を作ることさえ禁止し、海のことを(沿岸の輸送を除いて)考えないようにしてきました。200年以上。武器のことも考えずにきました。200年以上。

兵学の観点で言えば、海に守られていた日本は一転、海によって丸裸にされたわけです。アヘン戦争で西洋の脅威がリアルにそこまで迫ってきたのを受けて、兵学者の松陰は日本の海防が心配になったんです。幕府と違って。

松陰がずっと学んできた兵学は、まあ平時は机上の学問でしかなかったわけで。それが突然、本当の意味で必要な時代になってきた。今こそ兵学者としてこの日本を守る時だ、それこそが自分の役割だ、という思いは、強烈な攘夷思想となります。

そんな折、ヤツがやってきます。黒船です。ペリーです。

◎──ペリー来航(1853年・1854年)

前にも書きましたが、黒船は突然やってきたわけではありません。来ることは知っていましたし、それ以前からアメリカは日本にアプローチしていました。

イギリスなんかにとっては、アジアは徐々に侵略していく対象で、日本はそのアジアの一番端っこ、「極東」でしたが、アメリカとロシアにとっては、日本は「お隣さん」で。侵略対象というよりは、とりあえずは仲良くなりたい先で。

ロシアもアメリカも、まずは友好的に日本に接近を試みました。でも幕府は、欧米諸国を(オランダ以外)ひとまとめにして、追い払いました。

そんなこんなを踏まえてペリーはやってきます。強硬な幕府に対して、強硬な姿勢で。軍艦で。帆船でなく蒸気船で。大砲を積んで。

それを松陰は目の当たりにします。佐久間象山と共に浦賀に見物に行って。

「来年また来るらしいから、その時は日本刀の切れ味を思い知らせてやるぞ」なんてことを手紙に書いて宮部鼎蔵に送ったそうですが、まあ実際の感想は、「西洋はんぱない、西洋やべえ」だったんじゃないかと。

さすがというか、松陰は盲目的に西洋を敵視する連中とは違って、本腰入れて西洋の学問を身につけようとします。師匠の佐久間象山の影響かも知れません。

さすがというか、松陰はまた暴挙に出ます。長崎に寄港予定のロシア軍艦での密航を企てます。ロシアが予定を前倒しにしたためそれは叶いませんでしたが、諦めず、翌1854年のペリーの黒船での密航を企てます。

結局、日本との軋轢を避けたいペリーによって退けられ果たせず。自首して、投獄されます。佐久間象山も、松陰をそそのかしただろうということで入獄、後に蟄居処分となります。

なおペリーの感想は「日本人の好奇心、すげーな!」だったと。一方の松陰は獄中で「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」と。やむにやまれぬ好奇心、ではなく。この国を思う心に突き動かされた。

松陰と、同行していた金子重之輔は長州へ移されて、松陰は野山獄に、金子は岩倉獄に幽囚。金子は獄中で病死します。松陰は一年ちょいの投獄期間に600冊ほどの書物を読んだそうです。繰り返し読んだ本もカウントしてのことだろうと思いますが、すごい数です。

一年ちょいで600冊読む松陰ですから、生涯ではとんでもない数を読んだことと思います。松陰が読んだ本は、兵学者として山鹿素行『武教小学』『武教全書』ほか山鹿素行の著書あれこれ。

また『孫子』はじめ『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』といったいわゆる「武教七書」。儒学系で『論語』『孟子』『大学』『中庸』、松陰は朱子学より陽明学を好んだようで、王陽明『伝習録』、大塩平八郎『洗心洞箚記』、 佐藤一斎『言志四録』 など。

さらに歴史を重視し、『史記』『資治通鑑』、『日本書紀』『太平記』『神皇正統記』『日本外史』、などなど、まあ挙げればキリがありません。

著書や書簡など松陰が記したものも多く、松陰を追っかけると一生かかります。こっちは書物を追うだけで一生かかるというのに、松陰は読んで書いて動いて、全部ひっくるめて29年の生涯なんですけどね……

先に挙げた本は今でも手に入りそうなものを中心に、面白そうなのをチョイス。その半分くらいは読んでみましたが、字面を追っただけというか、松陰先生のように語れるほどにまでは読めていません。

凡人の私には、解説書がないと、書いてあることの本質は百分の一も理解できません。兵法書を読んでも、へー、ほーう、で終わりです……

さてそんな話はさておいて、1855年に松陰は出獄、実家の杉家に預けられます。

松下村塾を開くのはその二年後のことです。

◎──今回はここまで

松陰先生の話はまだまだ続くので、今回はここまで。次回に持ち越します。

松陰のすごいところは、長州藩士という身分にありながら、その目は日本全体を見ているところです。まあ藩士の身分は脱藩の咎で剥奪されてはいますが、松陰にしてみればそんなことは些事に過ぎなかったのでしょう。

藩だとか通行手形だとか、そんなこと言ってる場合じゃねーぞ、と。この日本を守るために自分ができることを全力でするんだと。

暴走っちゃ暴走ですけど、政権を預かっておきながら無策だった幕府を見かね、じっとしてはいられなかった松陰の熱情は、今なお尊敬されるのも分かる気がします。他にやりようはなかったのかよ、ってのは今だから言えることで。

……とは言え、めちゃくちゃですけどね。この先さらに。

次回に続く。

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