ざっくり日本の歴史(その9)

本記事は2015年05月11日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

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◎──関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い、という名称を聞いたことない人は、まあいないでしょう。また、東軍と西軍とに分かれて戦って、徳川家康のいたほうが勝ったということも、学校の授業か何かの記憶でなんとなくご存じかと。そして勝った家康は幕府を開いたということも。ちゃんと授業を聴いていた人は、西軍に裏切りが出て、それで家康がいた東軍の勝利が確実になったなんて話も。

でも、なぜそんな戦いが起こったのか、家康は誰と戦ったのか、冷静に改めて考えてみると思い出せない、よく分からない人が多いのではないでしょうか。歴史に興味がある人は別として。

……歴史に興味がない人は今これを読んでないだろ、なんてことは考えない!

家康方が勝って幕府を開いているから、豊臣方と戦ったと思っている人も多いかもしれませんが、豊臣が滅ぶのは大坂夏の陣ですよね。関ヶ原じゃない。

だんだん混乱してきませんか。

学校で習ったことを思い出してみましょう。

1600年 関ヶ原の戦い。徳川家康を中心とした東軍の勝利
1603年 家康が江戸に幕府を開く
1614年 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣。豊臣家滅亡

「外堀だけてゆーてたのに、内堀まで埋められた!」ってのは大坂冬の陣です。家康が幕府を開いてから大坂の陣まで、10年ほどの開きがあります。

関ヶ原の戦いは、徳川と豊臣との戦い、というのも大局的には間違いとも言えないのですが、より正確に言えば「豊臣家内部の政権争い」です。関ヶ原の戦い時点では、徳川家康は豊臣家の家臣、五大老の一人です。

◎──関ヶ原の戦いは超ややこしい

よーし、関ヶ原の戦いについて詳しく解説するぞーと言いたいところですが、これがまた、超ややこしくて。詳しく書けば書くほど、泥沼にはまります。

『逆説の日本史』シリーズの井沢元彦氏が、その12巻で、

『とうてい書き切れない。よく「一冊の本になる」と私は言うが、実は司馬遼太郎の『関ヶ原』は何と上・中・下の三巻本になっている。家康の生涯(といってもダイジェストだが)を書いた『覇王の家』が一巻本なのにである』

井沢元彦『逆接の日本史』12

と書かれていますが、分かりやすい説明だなと思います。それほどややこしい。

◎──西軍と東軍

とりあえず、戦った両陣営の有名どころを見てみましょう。
・西軍
毛利輝元(120.5万石・大将)
上杉景勝(120.0万石)
島津義弘(73万石)
石田三成(19.4万石)
大谷吉継(5.0万石・三成のマブダチです)
小西行長(20.0万石)
安国寺恵瓊(6.0万石・『軍師官兵衛』で毛利方の外交してたあの人です)
小早川秀秋(37.0万石・東軍に寝返ります)
吉川広家(14.2万石・東軍に寝返ります)
織田秀信(13.5万石・信長の孫、三法師くんです)
長宗我部盛親(22.0万石)
真田昌幸(3.8万石・幸村のお父さん。幸村もセット)

・東軍
徳川家康(256.0万石・大将)
前田利長(84.0万石)
伊達政宗(58.0万石)
加藤清正(20.0万石)
福島正則(24.0万石)
細川忠興(18.0万石)
浅野幸長(16.0万石)
池田輝政(18.0万石)
黒田長政(18.0万石・官兵衞の息子です)
藤堂高虎(11.0万石)
最上義光(24.0万石)
山内一豊(5.9万石・妻が内助の功で有名な人です)
本多忠勝(10.0万石・戦国BASARAでは巨大ロボ)
井伊直政(12.0万石・安政の大獄、桜田門外の変の井伊直弼のご先祖です)

・独自路線軍(一応は東軍)
黒田如水(隠居した黒田官兵衛です。九州で大暴れ。)

・大失態軍
徳川秀忠(後で書きます)

Wikipediaを見ながら石高を添えてみました。戦力は石高にそのまま比例すると思ってください。

加藤清正、福島正則、黒田長政って、『軍師官兵衛』で秀吉とおねに我が子のようにかわいがられて育てられていましたよね。でも東軍なんです。この辺がまたややこしいところで。関ヶ原時点の豊臣家内部は、対立軸がぐちゃぐちゃなんです。

・徳川派 vs アンチ徳川派
・インテリ官僚派(文治派) vs 筋肉武力派(武断派)
・おね(北政所)派 vs 茶々(淀殿)派

ざっとこんな感じ。

先に挙げた加藤清正、福島正則、黒田長政が、このややこしさを分かりやすく説明(?)するのにちょうどいいのですが、三人とも、秀吉もおねも好きです。ですが、三成が嫌いです。茶々には別に恩もないし、三成とセットで嫌いです。だって正妻のおねを蹴落とした女だし、大嫌いな三成を重用してるし。

大好きだった秀吉はもういない。おねは好きにすればいいって見守ってくれている。よーし、じゃあ東軍だ!って感じでしょうか。(さすがにそこまで単純じゃないか)

なんで三成が大嫌いかというと、インテリ官僚系の三成には、朝鮮出兵の際に煮え湯を飲まされているんです、筋肉系は。異国で死ぬ思いで戦わされたのに、功績は貶められたりして。もう、殺してやりたい。というか後で書きますが、実際に殺そうとしています。

他にも色んな理由で、豊臣家内部は対立だらけでした。

◎──駆け足で関ヶ原

さて、既にもうお腹いっぱいな人も多いと思いますが、関ヶ原の戦いを駆け足でざっくり見ていきましょう。あ、戦いは一瞬です。

・1598年
秀吉:「ワシはもうダメじゃ、家康、みんなで秀頼を頼む……(パタッ)」

家康:「太閤殿下、もちろんお任せください!(俺の時代キターーー!!!)」

直後から家康、やりたい放題。前田利家が対立する形で睨みをきかす。伏見の家康派と大坂の前田派、一触即発。

武断派:「文治派むかつく。三成むかつく」

文治派:「筋肉バカうざい」

利家:「おまえら、もめたらシバく」

・1599年
前田利家、病で亡くなる。

武断派:「よし、利家さんも亡くなったし、もう三成やっちゃっていいよね」

三成:「え、そんな、やめて! 家康さま、あいつら親しいでしょ、止めて!」

家康:「おーい、そのへんでやめといたれ。三成、おまえは隠居しろ」

一方で。

家康:「なんか利家んとこの長男が俺を殺そうとしてるって噂を聞いたんで、加賀を征伐しに行きまーす」

前田利長:「いや、ちょ、ちょっと待って、そんなことしてないから! 待って! 人質も出すよ! あんたの下につくよ!」

家康、さらにやりたい放題。

三成:「家康め……くそっ!」

・1600年
最上:「家康さま、なんか上杉が軍備進めてるみたいですよ?」

家康:「上杉景勝よ、どういうこっちゃ、ちょっと出てこいや」

景勝:「やだ」

上杉さんちの直江兼続による「直江状」:

「は? なにをゆーとんねん。悪いことしてへんのに、なんで行かなあかんねん。武器集めてるやろって? おまえらが茶碗集めてるんと一緒じゃボケ」

家康:「ほう……会津上杉、潰しにいこっかな。うん、行ってきまーす」

三成:「チャーンス! 今だ、家康を討つぞーーー!」

家康:「よし、食いついた。はい、反転、三成つぶーす!」

三成:「え、くそ、でもこっちの味方のほうが多い! 相手は主力級の秀忠隊も関ヶ原に着いてないし、勝てるはず! 秀頼様も出てきて! 錦の御旗になって!」

淀殿:「秀頼にそんな危ないことさせません」

小早川たち:「すんませーん、俺たち寝返りまーす」

三成:「ギャフン!」

黒田如水:「ほう、関ヶ原で天下分け目の合戦か! よーしこの隙に九州をまるっと攻略して、その余勢で本州駆け上って、天下取ったるで!」

黒田長政:「お父さん、聞いて! 関ヶ原、俺の活躍もあって瞬殺で片付いてん! 家康様も褒めてくれたで!」

黒田如水:「……おーまーえーはーあーほーかー……」

家康:「はい、天下取り、決定。これだけの内戦を片付けたんだから、もう誰も文句ないよね、俺がトップね。秀頼様? 盛大なお家騒動やらかしたんだし、謹慎してなさい」

……と、だいたいこんな感じです。関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後の豊臣家内部の政権抗争です。本能寺の変後、秀吉が柴田勝家と戦ったようなもの。秀吉が上手いこと天下人になったように、家康も同じく上手いことやりました。

以上おおざっぱな説明ですが、詳しいことが知りたい方は関ヶ原特集の本でも読んでくださいね☆(逃っ)

◎──徳川秀忠の失態

徳川が天下を取るぞって戦いに、家康の後継者たる秀忠の姿がありませんね。家康も結構な年齢ですし、この戦いは秀忠に箔を付けるのにももってこいだということで、主力級の兵力を与えつつ、江戸から別ルートを進ませました。

家康自身は東海道を西へ進軍し、秀忠には中山道を進ませ、中山道の押さえを命じました。その道中に信濃国上田城という城があり、西軍の真田昌幸と幸村の親子がいたんです。幸村がとにかく有名ですが、父親の昌幸もすごい人で。

関ヶ原から遡ること15年前、徳川と揉めた際、押し寄せる徳川7000人の軍勢を1200人で撃退。この時、徳川の被害は1200、真田は70だったと言われています。昌幸が秀吉の傘下に入ったこともあって、家康は諦めて和睦。また重臣である本多忠勝の娘を昌幸の長男、信幸に嫁がせました。

この信幸は関ヶ原でも東軍に付き、真田家は東西に分かれます。結果的にはこれで、どっちに転んでも、関ヶ原後も真田家は残るという形に。

話は戻って、秀忠のこと。

秀忠:「真田ぁー、大人しく上田城を明け渡せー! こっちは大軍じゃー!」

昌幸:「ちょっと待ってね」

秀忠:「……おーい、まだかっ!」

昌幸:「よし、オッケー、籠城の準備できた。かかってこいよ」

秀忠:「!?!?!?!?!?!?!?!?」

その後も、あの手この手で手こずらせて足止めしつつ、さらには逆に大打撃を与える戦いっぷりの真田マジック。そんな最中の9月8日のこと、家康から秀忠に「中山道はもういいから9月9日までに美濃に来い」との手紙が。……無理。

手紙を持った使者が悪天候で遅れたせいですけど、9日どころか、15日の関ヶ原の戦い本戦にも間に合わず。到着したのは戦が終わってからだったと。真田にやられるわ、戦には遅れるわで、家康ブチ切れ。三日間、会ってもくれなかったそうです。真田にやられたのはともかく、遅れたのは手紙が届かなかったせいなので、ちょっとかわいそうでもある……。

上田城で秀忠をいいようにあしらった真田昌幸と幸村の親子ですが、関ヶ原の戦い自体は西軍の敗戦だったので、戦後処理で和歌山の九度山に流罪になりました。死罪の予定だったんですが、信幸やその義父・本多忠勝の助命嘆願で。

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