ざっくり日本の歴史(その2)

本記事は2015年02月09日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。

今回は前回に続いて、日本の歴史を辿ります。今回は前回のおさらいと補足です。

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◎──原始~古代の振り返り

前回は旧石器時代から平安末期までをざっと紹介しました。稲作が始まって、奴国王や卑弥呼などの権力者が現れた弥生時代。畿内を中心に大王(天皇)を軸とした政権が整っていった古墳時代、飛鳥時代。仏教にすがった奈良時代。京へと都を移し、藤原氏を中心に貴族文化の栄えた平安時代。

そして、次第に武士が台頭し、平氏が政治を動かすようになったのが、その平安末期。平氏が源氏に討たれ、時代は中世、鎌倉時代に入っていきます。

日本の歴史は、ちょうどA.C.に切り替わった辺りから記録が残り始めるので、年表で追っても分かりやすくて助かります。参考にところどころ世界史を挟みつつ、追っていきますね。

57年 倭奴国王、後漢に遣使、金印を授かる。(後漢書東夷伝)
<96年~180年 ローマ、五賢帝の時代>
<208年 赤壁の戦い(三国志)>
239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。(魏志倭人伝)
413~502年 倭の五王がしばしば大陸に遣使。(晋書、宋書、南斉書、梁書)
538年 百済の聖明王によって仏教が公伝。
587年 蘇我馬子が厩戸皇子(聖徳太子)と共に物部守屋を討つ。
<570年頃 ムハンマド誕生>
593年 聖徳太子が推古天皇の摂政に。

聖徳太子大活躍の時代ですが、いわば蘇我氏との連立政権です。太子の没後、蘇我氏は専横に走ります。そして、いわゆる「大化の改新」に繋がります。

645年 中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我氏を討つ。(乙巳の変)

中大兄皇子が実権を握り、後に即位し天智天皇に。中臣鎌足は藤原の姓を賜り藤原鎌足となり、後に栄華を誇る藤原氏がスタートします。ただ、鎌足の一族がこの後の壬申の乱で負けた側に与していたために、いったん躓くようですが。なお壬申の乱の時、鎌足の嫡男の不比等はまだちびっ子で、まったく関わらず、蚊帳の外です。

天智天皇は弟の大海人皇子を皇太子としていましたが、息子の大友皇子を太政大臣に就けるなど、自身の後継とするそぶりを見せます。こうして跡目争いが勃発。大海人皇子はいったん出家して引くと見せて、天智天皇の崩御後に挙兵。皇位を勝ち取ります。これが壬申の乱です。

672年 大海人皇子と大友皇子が後継を争い、大海人皇子が勝利。(壬申の乱)

大海人皇子は即位して天武天皇に。その次の持統天皇は天武天皇の皇后です。即位して天智天皇にとか、即位して天武天皇にとか書いていますが、あくまで便宜上のことで、実際に「○○天皇」と名前(諡号)が付けられるのは亡くなってから。それも基本ずいぶん経ってから。

また、壬申の乱は後継者同士のガチバトルで有名ですが、通常はそうなる前に、時の権力者の手によって、不都合な有力者はあの手この手で消されていきます。

694年 持統天皇、飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都。
701年 大宝律令の成立。(初の本格的な法律)
710年 元明天皇、藤原京から平城京へ遷都。
712年 『古事記』成立。
720年 『日本書紀』成立。
723年 三世一身の法を定める。

大化の改新で「民も土地も天皇のものだよ、公のものだよ、私有させないよ」と公地公民制が敷かれるのですが、そうなるとみんな、自発的に開墾しようとしなくなるんじゃないかと心配に。なんか、後世でもどっかで聞いたような話ですね。そこで「開墾したら三代までは私有していいから、開墾しなよ」と。

729年 藤原不比等の娘、光明子、聖武天皇の后に。(王族以外で初の皇后)

皇后になっていないだけで、それ以前に不比等の娘は文武天皇に嫁いでいます。聖武天皇のご両親となります。天皇の奥さんが藤原氏。また天皇のお母さんが藤原氏。そりゃあ藤原氏、強くなりますよね。政権の有力者が義理のお父さん。何も言えなくてもしかたない……しかも、不比等は天智天皇の御落胤、との説もあります。

その後、四家に分かれた藤原氏ですが、天然痘の流行で四家の長を一気に失います。元皇族の橘諸兄が急遽、政権を担うなどしばらくバタバタするものの、藤原仲麻呂(恵美押勝)の台頭でまた持ち直します。その仲麻呂も、道鏡との対立で、乱を起こして失脚しますが、藤原氏はその後、また頑張って持ち直します。そして、藤原道長・頼通父子の代に最盛期を迎えます。

こう書くとあっという間ですが、300年くらいの期間での話です。

737年 疫病が流行、藤原四兄弟が亡くなる。
741年 国分寺建立の詔。
743年 墾田永年私財法を定める。

公地公民だ、三世一身だとあれこれ言っても、みんなまだ今ひとつピンとこず、土地政策はよく分からない状態で。それでヤケになったのか、何かインパクトが欲しかったのか、「開墾したら、ずっとそこはあなたのものに」と。これは影響があったようで、人を動かせる有力者や寺社はせっせと開墾に励み、後の荘園へと繋がっていきました。というかたぶん、そのために有力者が作らせた法だったんじゃないかと言われています。利益誘導? よくある話ですね。

あまりに効果がありすぎて開墾合戦になっていったので、称徳天皇の時代に、権力者だった道鏡がいったん止めさせますが、道鏡の失脚後にすぐ復活。一度得た欲に歯止めはききません。

土地という財産を持ったら、それを守るために武力も求められ、それが武士が誕生する発端のひとつだったとも言われています。

784年 桓武天皇、長岡京へ遷都。
794年 桓武天皇、平安京へ遷都。
801年 坂上田村麻呂、東北平定。
858年 藤原良房、摂政になる。
887年 藤原基経、最初の関白になる。
この頃、警護兵として「武士」登場。(滝口の武士)
<907年 唐が滅亡>
1017年 藤原道長、太政大臣に。

1086年 白河上皇、院政を始める。

ここらで潮目が変わります。実権が天皇に戻るんですね。ただ、武士を伴って。

<1096~99年 第1回十字軍>
1098年 源義家、昇殿を許される(初めて武士が殿上人に)。
1156年 保元の乱(後白河天皇派with平清盛、源義朝vs崇徳上皇派)
1159年 平治の乱(後白河上皇派with平清盛vs二条天皇派with源義朝)
1167年 平清盛、太政大臣となる。

1180年4月 以仁王、平家追討の令旨を発し、源頼政らと共に挙兵。
1180年8月 源頼朝、伊豆国で挙兵。
1184年   頼朝、鎌倉に公文所・問注所(政治や裁判を扱う役所)を置く。

1185年3月 壇ノ浦の戦いで平氏滅ぶ。頼朝、守護・地頭(地方官)を配置。
1192年  頼朝、征夷大将軍に任ぜらる。

源平の戦いといえば、この後の鎌倉時代に成立する『平家物語』で有名ですが、「逆説の日本史」シリーズの井沢元彦氏はこの『平家物語』を、「生きたラジオ」による「ラジオドラマ」と説明しています。

琵琶法師が津々浦々で語ったこのラジオドラマは、庶民に物語を音で刷り込み、物語を「読む」ことができる下地を作ったとしています。そして、庶民の識字率の向上に繋がったと。

「逆説の日本史」ほか、井沢さんの歴史物は面白いのでオススメです。私はKindleで買いお風呂で少しずつ読んでいます。KindleやiPhoneをジップロックに入れて。シリーズを最初から読んでいくもよし、興味のある時代から読むもよし。

私が最初に読んだのは、逆説の日本史16『江戸名君編 – 水戸黄門と朱子学の謎』からでした。冲方丁の『光圀伝』を読んだ流れで手を出して、ハマりました。とはいえまだ数冊しか読めてませんけども。

◎──前編のおさらいのおさらい。

日本史は割と一本道なので、権力者の推移を追いかけるだけでも面白いです。奴国王や卑弥呼→大王(天皇)→蘇我氏→天皇→藤原氏→天皇・上皇→平氏→源氏と、間にちょいちょい長屋王や橘諸兄、また道鏡のようなイレギュラーも出てきますが、天皇とその他の間をいったりきたりします。奪い合ってというよりは、そうして微妙なバランスの中で脈々と続いてきたんですね。

源氏の後、北条氏、足利氏ときて、織田、豊臣、徳川と武士の世が長く続き、幕末に大きく揺り戻しが起こります。

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