本記事は2015年06月01日に「日刊デジタルクリエイターズ」へ寄稿した記事に修正を加えて再掲したものです。
前回は関ヶ原の戦いについて書きました。徳川家康率いる東軍が勝ち、西軍は憂き目をみます。なお、関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけ戦ったのではなく、地方でも、東軍支持の大名と西軍支持の大名が戦っています。九州で兵を挙げた黒田如水はそのタイプで、東軍支持派として、九州の西軍支持派を次々に平らげていきました。
家康は戦後処理を一手に担い、都合のいいように国を組み替えていきました。重要な拠点は一門で固めたり、東軍として功績があった大名でも、豊臣恩顧の大名は、加増しつつ遠隔地に移したり。
西軍は、いうまでもなく、処刑、厳封、改易ラッシュ。
西軍の大将だった毛利輝元は、紆余曲折の末に、大幅減封され萩(長州)へ。この紆余曲折も面白いのですが、長くなるので割愛します。ググって!
ボロボロにされながらなんとか薩摩へ戻った島津は、交渉の末、なんとか本領安堵。交渉の余地があったというのも面白いのですが詳細は割愛。ググって!
……なお260年後、倒幕運動の中心になるのはこの「薩長」です。
そんなこんなで徳川家康は反対勢力を追いやり幕府を開き、豊臣家との主従も、実質逆転させました。とは言えやっぱ主君筋。扱いをどうしたもんかなー、と。
屈服させるか、滅ぼしてしまうか。
まあとりあえずというかなんというか、秀吉の遺言に従って、秀忠の娘を秀頼に正室として嫁がせます。1603年、秀忠は満24歳、秀頼は満9歳です。嫁いだ娘というのは、秀忠と江の長女である千姫。満6歳でした。
1605年、家康は将軍職を秀忠に譲ります。将軍というのは武家の頂点。その職を秀忠に譲るということで、将軍職は徳川家が今後も担っていくことを示したわけです。幼い秀頼に代わり家康が将軍職を預かっている、というような甘い見方も打ち砕かれました。
徳川は豊臣に臣下の礼を取るよう勧めますが、そこはやはり拒否されました。淀殿がつっぱねました。
秀頼と言えば淀殿べったりなマザコンってイメージがどこかありますが、でもこの頃、秀頼はまだ今で言えば小中学生くらいなんですよ。お父さんの秀吉はもう亡くなっていますし、お母さんの淀殿がなにかと口出しするのも仕方ない。元服するかどうかってくらいの年齢ですから、自立を求めるのもそれはそれで分からないでもないですけども、お家の存亡を左右する判断を委ねるのは酷でしょう、この時点では。
◎──二条城会見
1611年、後水尾天皇の即位に際して京都に入った家康は、二条城にて秀頼との会見を求めます。会いに来い、と。
たぶん淀殿はまたキレたと思うんですが、豊臣方の大名たちも間に入って取りもち、会見することになりました。
家康はこの時と翌年と二回に分けて全国の大名を呼び、幕府に従う旨の誓約書を出させていますが、秀頼にはそれを出させていません。ここの解釈には諸説あるようで、「秀頼を立てたんだよ説」「立てたフリして仲間はずれにした説」また「誓約書出してないから臣従してない説」「会見に出向いた時点で臣従説」などなど。まあ、何にしても会見もしたし、カタは付いていないものの、両者ひとまずは歩み寄ったところで一段落。
……と思いきや、両者、このあたりからゆるゆると戦支度にかかります。二条城でなにがあったんでしょうね。(笑)
◎──方広寺鐘銘事件
そして1614年、有名な方広寺鐘銘事件が起こります。豊臣が再建を進めていた方広寺の梵鐘が完成したんですが、その銘文の中に家康を呪う言葉がある、と。以下、家康付きの御用学者・林羅山の攻撃と、銘文担当の僧・文英清韓の弁明。(Wikipediaを参照しました)
・『右僕射源朝臣家康』
羅山「は? 家康さまを射るってどういうことよ?えらい直球やな、おい?」
清韓「いやいやいや、右僕射って右大臣の唐名ですって! 他意はないです!」
・『国家安康』
羅山「家康さまの名前をぶった切ってくれちゃって、まあ」
清韓「ちゃいますって! 敬意を払って織り込んだんですって!」
・『君臣豊楽』
羅山「ほー、豊臣を君主として楽しく、ね。豊臣の天下を狙ってるんやね」
清韓「そんな大それたことやなしに、名前を織り込んだだけですやん……」
家康「お前らの考えはようわかった。あれやな、結局のところ、うちらとコト構えるっちゅーわけやな」
とまあ、一触即発状態。
賤ヶ岳七本槍の一人として有名な、方広寺再建の担当だった片桐且元が弁明に奔走するも、もともと家康に近しい立ち位置だったことが災いして逆に豊臣方から「お前どっちの味方やねん」と、裏切り者呼ばわりされる始末。
且元も悪いんですけどね。家康に弁明に行ったものの会ってすらもらえず、「家康さま、会ってもくれへんほどに激怒してますわ。もうこれは、秀頼さまが家康さまのところに出向くか、淀殿を人質に差し出すか、大阪城を退去して他所に移るか、そのどれかしかないと思いますわ」って、そんなことを奏上。……結果、秀頼に叩き出されました。で、徳川方に走りました。
且元も悪い、と書いておきながらアレですが、完全に家康にハメられた感じで。見事に踊らされています。何があったかは割愛します。ググって!(しつこい)
さあ、もはや、対立はピークです。
豊臣は戦に備えて全国の浪人に檄を飛ばして集めにかかります。九度山に蟄居していた真田幸村もそれに応じた一人。また黒田家を離れていた後藤又兵衛もそれに応じてはせ参じます。軍師官兵衛で長政と幼少期を共にしていた彼です。
徳川はそんな豊臣に対して、征伐の狼煙を上げます。ついに決戦です。
◎──真田幸村
さて、大坂の陣に入る前に、ここで少し真田幸村について。前回も少し名前は出しましたが、大坂の陣のヒーローなので、特別扱いします。(笑)
ハイライトは大坂の陣の話の中で触れることにして、ここでは背景などを少し。
まず、ここまでずっと「真田幸村」と書いてきましたが、実際は真田信繁です。
亡くなってすぐの軍記物でなぜか幸村と書かれてそれが定着したものでして、存命中に幸村と呼ばれていたのかどうかは、実は定かではありません。軍記物の創作、というのが有力なようですが、名乗っていなかったとも限りません。名乗っていたという記録がないだけなので。
ともかく、まあすっかり定着し、後々には幕府の記録や家系図でも幸村って書かれるようになったくらいなので、分かりやすいように、基本的には幸村って呼ぶことにします。
その幸村ですが、生まれは1567年、真田昌幸の次男として信濃に生まれます。祖父の代から武田家に属していましたが、武田が滅亡すると、織田信長に恭順。1582年、幸村15歳の時です。
が、それからたった三か月で本能寺の変。付近の旧武田領は、上杉、北条、徳川で切り取り合いになります。真田は三者の間を渡り歩きつつ、最終的には上杉に付き、この機会に自立します。1585年、そのあたりのもめごとから第一次上田合戦に。
前回書いた、押し寄せる徳川7000人の軍勢を1200人で撃退したっていうやつです。幸村パパの仕事。
幸村は上杉に人質として送られていました。ほどなく真田は豊臣に付くことになり、幸村、今度は人質として大坂にいくんですけどね。
その後、幸村は大谷吉継の娘を正妻に迎えて、1590年の小田原征伐にも従軍。1594年には豊臣姓を下賜されたそうなので、秀吉には気に入られていたんじゃないでしょうか。分からないですけど。
で、1598年に秀吉が亡くなり、1600年に関ヶ原の戦い、と。前回書いたとおり、西軍に付いた昌幸と幸村の親子は、東軍に付いた信幸の嘆願もあり死罪は免れ、九度山に配流。昌幸は1611年に九度山で亡くなります。幸村は1612年に出家。
1614年、秀頼の呼びかけに応じて、息子の大助と共に九度山を脱出、大坂へ。ここからの活躍は、大坂の陣についての話の中で。
◎──真田十勇士
真田幸村と言えば、それに仕えた十勇士が有名。とは言っても、後の講談から生まれた架空の存在ですが(一部はモデルもいますし、実在説もあります)。
幸村は江戸時代の軍記物でもヒーローで、また色々な物語が創作されました。そして大正時代に講談を編集した立川文庫にて、「真田十勇士」としてまとめられました。十名のうち、個別に有名なキャラクターも数名いるので、名前は聞いたことがあるという人物がきっといると思います。
・猿飛佐助(さるとび さすけ)
ね、聞いたことあるでしょう?(笑)甲賀流の忍者です。私と同年代か少し上の方にとっては「オン キリキリバサラ ウンハッタ」の彼です。誰が呼んだか忍者の小ザルです。怒れば百メガトンです。ダントツ人気で、立川文庫版作者ゆかりのJR今治駅前に銅像も建っています。
・霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
こちらも有名。伊賀流の忍者で、同じ十勇士でありながら佐助のライバルです。
・三好清海入道(みよし せいかい にゅうどう)
・三好伊三入道(みよし いさ にゅうどう)
兄弟の破戒僧です。
・穴山小介(あなやま こすけ)
大坂夏の陣において幸村の影武者として戦死。
・由利鎌之介(ゆり かまのすけ)
真田昌幸・幸村親子を狙っていたが、捕らえられて家臣に。
・筧十蔵(かけい じゅうぞう)
やや有名でしょうか。火縄銃の名手です。
・海野六郎(うんの ろくろう)
真田幸村の家臣。
・根津甚八(ねづ じんぱち)
名前は有名ですよね、俳優として。(笑)俳優の根津甚八さんは、本名も名字が「根津」で、それで十勇士にあやかって唐十郎さんから「甚八」と名付けられたそうです。
・望月六郎(もちづき ろくろう)
やや有名、ってところでしょうか。爆弾使いです。
というか並べると、佐助と才蔵が有名すぎて、他は霞んでしまいますね……
以上が真田十勇士です。講談では幸村は大坂夏の陣を佐助と薩摩へ落ち延びるようです。それぞれが大活躍の物語なんですが、個々に紹介する余裕はないので、なにか適当な本でも読んでみてください。いっぱいあります。
有名どころとしては、柴田錬三郎『真田十勇士』、司馬遼太郎『風神の門』など。『風神の門』は、十勇士というか才蔵の話です。笹沢佐保の小説『真田十勇士』を岡村賢二がコミカライズしたものが、コンビニに並んでいたこともありました。
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